地域の「お祭り」に参加する窮屈さ(私は参加しないけど)
本日は昼から人に会う予定があります。
というわけで、いつもより早めにブログに手を出しています。
最近は夕方、「そろそろ何か書くかな」と思い立ってから1時間くらい結局手を出さずにダラダラし、その後サクサクっと30分くらい集中して書く、というスタイルが続いていたので、午前中からブログを書くのは新鮮ですね。
「人に会ってから書けば?」という、ごもっともなご意見もあるでしょう。
しかし、たぶん今日は昼から酒を飲みます。
さすがに酒を飲んだ後、ブログを書くという強い意志を持ち続ける自信は、ちょっとありませんので。
昼酒、いいですよね。
「癖になりやすい」「アル中になりやすい」という話もありますので、たまにしかやりませんが。
あ、ここ、「たまにはやるんだ」と突っ込むところですよ。
しかし、タイトルに関係ない前置きが長いですね。
私のアパートのすぐ近くに小さな地域の集会場があります。
そこで、昨夜お祭りが開かれていたんですよ。
お祭りと言っても、屋台が出るとかそういう立派な奴ではなく、地域の住民が集まって酒を飲み、カラオケを歌うという集まりです。
当然参加するのは「昔からこの辺りに住んでいる」住民たちであり、私のような「外部からの転入者」はあまり参加しません。
ちなみに私は、知らないおじさんおばさんのカラオケなんて聞きたくもないので、さっさと家を出て飲みに行きました。
このように私は「参加したい」という気持ちはまったくないのですが、以前居酒屋で知人(代々この地に住まう地元民)と話していて、「祭りに参加したい」という転入者がそこそこいる、という話を聞いて驚きました。
ただ、「参加したい」と言う人は、この辺りに家を建てたとか、マンションを買ったとか、そういう人が多い、と聞いてちょっと納得もしました。
「家を購入した」ということは、この地で、少なくとも自分は死ぬまで生活していくつもりなのでしょう。
そう考えた時、地域住民の中に溶け込んでおきたい、と思うのは当たり前の感覚なのかもしれません。
私のような賃貸アパートに住み、別にずっとこの地に住まうつもりもない人間とは感覚が違う、ということでしょう。
その割には同じアパートに住むこと10年以上経過しているのですが。
これは「この地が気に入っている」というわけではなく、「引っ越しが面倒臭い」というだけの理由です。
知人によると、「参加したい」という申し出があったら断ることはない、とのこと。
現に、数年前から参加するようになって仲良くやっている、という家族もちょいちょいいるようです。
それ自体はとてもいいことですが、やはりどこか馴染めず、参加しなくなってしまう人もいる、とのこと。
祭りに参加することは義務ではない(義務だったら私は許される存在ではない)ので、参加しようがしまいがどうでも良い、というのが私の考え方です。
実際、近所の人たちと別に交流がなくても、私はこの地に10年以上、問題なく暮らしているわけでして。
むしろ、「近所の人間と付き合いたくなくても付き合わざるを得ない」という超ド田舎からやってきた人間としては、「地域の付き合いなんて面倒なだけ」です。
あっちに気を使い、こっちに気を使い、地域の行事を手伝って……みたいな親の姿を見ていたので、同じことは絶対にやれません。
やる気もありません。
でも、やらないと陰口たたかれて、仲間外れにされるんですよ。
田舎の人間の陰湿さは田舎の人間がよく知っています。
若い人たちはまだ「やりたくないなら別にいいんじゃない?」な感じですが、老人たちが、ねぇ……。
そういう面倒な人間関係を見てきた人間からすると、わざわざ引っ越してきてまでそんなものに参加するなんて、どうかしてるんじゃないの、という気持ちになるのです。
せっかく人間関係が希薄でも問題ない都会に住んでいるのに、もったいない。
まあ、こういう集まりに参加して「心から楽しい!」という人も多いのでしょうし、それに対して文句はありません。
私は参加しないけど、というだけの話です。
でも、みんなで楽しんでいるように見えるけど、中には人間関係で苦労している人もいるんじゃないかな、と。
そう考えると、まったくありがたくない迷惑なだけの素人カラオケも「まあ、頑張りなさいな」と寛大な心で受け入れられるのです。
力士の四股名、もっと伝統的な名前を継いでもいいんじゃないか問題
明日から大相撲九月場所が始まりますね。
最初、なぜか「七月場所」と打ってしまいました。
自分の中に謎の二ヶ月間もの空白期間が存在しているようで驚きました。
毎日あまり刺激も、代わり映えもない生活を送っている弊害でしょうか。
少しだけ落ち込みました。
それはともかく、九月場所が始まります。
舞台は東京・両国国技館。
鶴竜の連続優勝か、日本国籍を取得した白鵬が意地を見せるのか。
それとも横綱以外の誰かが優勝を奪うのか。
大関カド番の豪栄道、栃ノ心は大関の地位を守れるのか、二場所連続負け越しで関脇に下がった貴景勝は十勝して大関に返り咲けるのか。
などなど、注目する点は多々あります。
私は国技館にまで相撲見物に出掛けるほどの熱心なファンではありませんが、テレビ桟敷で観戦できる時には観戦しようかと思っています。
とは言ってもなかなかリアルタイムで観戦するのは難しく、ネットで結果だけ知るか、深夜の「幕内の全取組」を見るか、というくらいなのですが。
それにしても、最近は力士も皆、個性的な四股名を名乗るようになりました。
それはそれで時代に則したものですし、わざわざ「初代」とか「二代目」とか付けずとも誰のことを言っているのかすぐにわかる、という点でも優れているかもしれません。
でも、「独創的な四股名ばかりではなく、伝統的な四股名を襲名する力士がもう少しいてもいいんじゃないかな」とすこしばかり寂しく思うこともあります。
現在だと、時津風部屋の元大関の名を継いだ幕内の「豊山」、父親の元関脇の名を継いだ佐渡ヶ嶽部屋の十両「琴ノ若」くらいでしょうか。
琴ノ若の場合は親子ということもあり、伝統的な四股名を継ぐ、というものとは少し違うかもしれませんが。
でも、昔から大相撲を見てきた人間にとっては「ああ、あの琴ノ若の息子か。じゃあちょっと応援しようかな」という気持ちにもなれます。
豊山の場合も「この四股名を継いだということは、期待されているんだな」と注目するようになるでしょう。
せっかく国技を名乗り、なかなか長い歴史を持っているのですから、それを活用しない手はない、と思うのですが。
もちろん、それなりの実力がなければ伝統的な四股名を名乗らせるわけにはいかない、という理由もあるでしょう。
力士の方も、四股名を継いで発奮してくれればいいのですが、逆にそれがプレッシャーとなって押し潰されてしまう可能性はゼロではありません。
確かに「お前は明日から双葉山を名乗れ」とか言われても、「いや、それはちょっとキツいっすわ」となってしまう気もします。
偉大すぎる四股名は名乗りづらいかもしれませんが、例えば部屋期待の力士が師匠の現役時代の四股名を継ぐ、みたいな例がもっと出てきても良いと思うのです。
「朝潮」とか「小錦」とか「増位山」とか、伝統的な四股名を名乗る力士に出てきてほしいのです。
「谷風」や「雷電」が令和の土俵に上る姿を見てみたいのです。
昨今の相撲界に関するさまざまなニュース、報道などを見ていると、どうにも力士が個人主義的になってしまっているのではないか、と感じます。
もちろん、土俵の上では頼れるのは自分だけ、個人の実力がモノをいう世界だ、ということは理解しています。
ですが、せっかくの伝統ある業界なのですから、力士たちにも個人のことばかりではなく、もっと相撲界全体のことを考えて、これからも「国技」として愛されるように土俵上を盛り上げてほしい、と一人のファンとしては思うのです。
そのきっかけは伝統的四股名の復活にある、私はそう考えています。
「アヒージョ」に対するアラフォーオヤジ的な感想
最近、いろいろな居酒屋で「○○のアヒージョ」がメニューとして取り入れられてきているな、と感じています。
先日はコンビニ、確か「サンクス」でしょうか。
「カニカマのアヒージョ ガーリック風味」みたいな商品を見つけて、つい購入してしまいました。
お店も商品名もうろ覚えなのは、酔っていたためです。
食べてみたところ、美味しかったです。
お店で食べる時のように「オリーブオイルたっぷり」という感じではなく、容器の底にちょっとだけオイル、という感じでしたが。
まあ、コンビニの商品でオリーブオイルがたぷたぷ入っていても、という感じなので、それは良いでしょう。
ただし、私はカニカマも好き、ニンニクも好き、という人間ですので、多分アヒージョでなくてもこの商品は美味しい、と感じたことでしょう。
つまり、この感想は「食レポ」としては何の役にも立たない、ということを自信を持ってお伝えしておきます。
初めて私が「アヒージョ」の存在を知った時、それはそれは驚きました。
「オリーブオイルで食材を煮る」って、もうそれは油を直接飲んでいるようなものじゃないのか、と。
そんなものを食べていたら、おデブさん一直線ではないか、と。
そう感想を述べたところ、「唐揚げとか天婦羅だって似たようなものでしょ」と言われました。
そうなのでしょうか。
何となく理屈は合っているような気もしますが、イマイチ納得しかねているのは、私が頭の固いオヤジだからなのでしょうか。
「でも、食べ終わった後に器に油が残るわけじゃないですか。その油、どうするの? 飲む以外の選択肢があるの?」
この質問でおわかりかと思いますが、私は「出てきた料理は食材の一欠片、調味料の一滴まで料金の範囲だから残したくない」という貧乏性です。
「飲む人はあまりいませんけど、バゲットを浸して食べる人はいますね」
なにそれ、怖い。
この「低脂質、低炭水化物」の時代に完全に逆行する行為ではありませんか。
デブ製造機以外の何者でもないではありませんか。
私はそれほど太ることに関して気を使っているわけではないんですけどね。
気を使っていたら、私のお腹はもう少し自己主張は控えめであることでしょう。
美味いものを食べたら太る、残念ながらそれが世界の摂理です。
話は急に変わりますが、私はアヒージョを見ていると「眼球エステ」を思い出します。
インドの伝統医学「アーユルヴェーダ」で「ネトラバスティ」と呼ばれるものです。
簡単に説明しますと、仰向けで寝たところに、小麦粉を水で練ったパン生地みたいなもので目の回りに土手を作ります。
ウルトラセブンの「ウルトラアイ」みたいな感じです(わかりやすそうでわかりにくい例え)。
で、そのパン生地の土手の中に溶かしたバターを流し込み、その中で目を開いて眼球を洗う、というもの。
これも最初聞いた時は、「なにその古代王国伝統の拷問みたいなやつ」と戦慄したものです。
実際試してみた人によると、めちゃめちゃ目がスッキリして効果抜群、という感想が多いのですが。
幸いにも私は、自分で体験したことはありません。
たぶん、そんなお洒落な施術をしてくれるようなお洒落なお店には一生縁もないでしょうし。
アラフォーオヤジは「お洒落」に対して過度に怯えます。
あれ、何の話でしたっけ。
そうでした、アヒージョの話でした。
「アヒージョって艶女(アデージョ)と響きが似てるよね」と話した時、若い子があまりピンときていないようでした。
考えてみれば、「艶女」とか「ちょいワルオヤジ」とかが流行したのも、もうだいぶ昔のお話。
もう若い子には通用しなくなっているのか‥‥‥。
試しにグーグルで「アデージョ」「艶女」と検索してみたところ、ちょっとエッチなお店が大量ヒットする始末。
やばい、もう完全にオヤジの感性じゃないですか。
アラフォーオヤジなんだから、当たり前なんですが。
結局「私はオヤジである」という結論に達してしまいました。
長々と書いてきたのは一体なんだったのでしょうか。
でもなんだかんだ言って、アヒージョは美味しいですよ、うん(精一杯のフォロー)。
今日、信号待ちをしている時に考えた何かの雑念
街を歩いていて道を渡ろうとした時、当然ですが横断歩道を渡ります。
横断歩道を渡ろうとすると、信号待ちになることがあります。
交通ルールは守らなければなりませんし、何よりも信号無視して車に轢かれるのは馬鹿馬鹿しいですから。
それは私だけでなく、周囲の方々も同じです。
私はあまり信号待ち中に、道路ギリギリまで近付くのは危ないし好きではないのですが、中には後ろからやってきて、人々の間の隙間を縫うようにして、少しでも前に出ようとする方もいます。
あれってなんなんでしょうかね。
たかだか数メートル程度、先に進んだところで大して時間の節約になるとは思えません。
道路ギリギリまで近付くことで、「車に轢かれるかもしれない!」というスリルを味わっているのでしょうか。
退屈な日常にスリルを求める、という気持ちはわからなくもありませんが。
それはそれとして。
信号待ちをしている時、前方の赤信号が青に変わるのだけを見ている、という人は少ないと思います。
大概の場合、横目で青信号を見ているのではないでしょうか。
「この青信号が赤に変われば、こっちの赤信号が青に変わる!」
信号機の仕組みとして、当たり前のことなのですが。
まあ、この考え方も合理的ではあります。
数秒を惜しんで道路ギリギリまで進む人がいるのですから、信号も変わった直後に渡りたい、という人がいても不思議ではありません。
しかし、この渡り方には、大きな罠が潜んでいます。
大きめな交差点で目にすることが多い、矢印式信号機の存在です。
矢印式信号機が青から赤に変わった、「さあ、こちらが青に変わるぞ!」という気持ちになった瞬間、矢印が点灯して別の車を進め始めるのです。
華麗すぎるスルー技術だ、と言えましょう。
スルー技術が華麗すぎて、こちらの歩行者用信号が青に変わる前に歩き出してしまう人がいます。
歩き出したはいいけれど、信号は赤のまま。
この事実に気づいた時、取る行動は人によってさまざまです。
数歩進んだところで立ち止まり、信号が青に変わるのを待つ人。
いや、あなたが立ってるそこ、道路だから。
めっちゃ危ないから。
信号が変わらないことには気づいても、そのまま足を止めない人。
「いや、別に騙されたわけじゃないから。最初からこのタイミングで渡るつもりだったから」
そんなすました顔で歩いていきます。
いや、それただの信号無視ですから。
轢かれても文句言えませんから。
足を止めないけれど、だんだんスピードダウンしていく人。
「信号よ、ゆっくり歩いているうちに青になってくれ!」という、強い思いをその背中から感じます。
しかし残念、多くの場合、信号は簡単には青になってくれません。
結果、その人はただ単に「なぜか赤信号の横断歩道をゆっくり渡る人」という、とてつもなく危険な人物となってしまうのです。
たぶん、「止まるのは恥ずかしい、けど赤信号を渡るのは良くない」という真っ当で善良な考えの持ち主のはずなのに・・・・・・。
大体これらのパターンです。
不思議なことに、あまり歩道まで戻ってくる人には出会ったことがありません。
やっぱり、いかにも「信号に騙された!」という感じがして恥ずかしいのでしょうか。
そんなところで格好つけても仕方がないだろうに、と思うのですが。
最初から、自分が渡るべき信号が青に変わるのをしっかりと待って渡ればこんなことにならなくて済むのですけれどね。
そのくらいの余裕は持って生きていきたいなぁ、と思った次第であります。
こんな「お通し」なら、個人的には満足です
昨日の「お通し」記事について、さまざまな方からコメント、ブックマークをいただきました。
ありがとうございます。
全体的に、やはり「お通しって必要なの?」という意見でした。
まあそうだよね、という感じです。
日本に旅行に来た海外の方とお通しでトラブルになる、という話もあります。
確かに、勝手に出てきて勝手にお金を取られるのですし、日本人でも不満に思っている人が多いのですから、海外の方が不満に思うのも当然でしょう。
「海外でも日本のお通し文化について理解は進みつつある」という話もありますが、全員が全員そう理解して訪日するわけではありません。
日本人も「チップ」の概念を完全に理解して海外旅行に行く人ばかりではないでしょう。
トラブルの種になるようなものは、なくしてしまった方が居酒屋にとっても良いと思うのですが……。
「日本の文化だ」と言う人もいるでしょうが、そもそも居酒屋の店員もなぜお通しを出すのか、ちゃんと成り立ちから説明できる人は少ないのではないでしょうか。
それを「文化」と言われても……という気がします。
「好き嫌いに関わらず出てくる」という意見にも完全に同意です。
幸いにも私は好き嫌いは少ない方ですが、パクチーだけは大の苦手。
もしパクチーがお通しとして出てきたら、そのお店に足を運ぶことは二度とないでしょう。
さすがにパクチーのような個人の好き嫌いが激しい食材をお通しとして出すお店は少ないとは思いますが……。
例えば蕎麦とか海老、蟹とか、アレルギーを持つ人が気付かずに食べてしまったら、とんでもないことになりかねません。
「そういうアレルゲンは自分で注意すべき」と言うのは、ちょっと無責任ではないでしょうか。
自分で注文したならまだしも勝手に出てきた料理で病院送りというのは、お店にとってもあまりにもリスクが高いように思います。
このように考えてみたら、「お通しにメリットってまったくないんじゃない?」と思えてきました。
悪い点ばかり挙げるのもどうかと思うので、「これなら満足かな」と思うお通しの例も挙げておきます。
私がよく行く焼き鳥屋では、「お通し選択制」になっています。
常時2~3種類の煮物とか、一口餃子とか、もやしナムルとか、毎日違ったお通しメニューを用意しています。
何よりも良いところは、「お通しなし」も選べるところ。
メニューにちゃんと料理名と値段も記載されていて、「お通し」と言いながらも「食べたい人は食べてね」な普通の注文扱いです。
デメリットとしては、全員に出すことが確定していないのでそれぞれの料理を大量には作れない、という点でしょうか。
大量に作って全員に出すならばその分コストを抑えられるのですが、それができません。
時々、人気のあるお通しは開店2時間後くらいには「品切れです」と言われてしまうこともあります。
この形式は「スピードメニュー」という形で取り入れている居酒屋もあります。
早めに提供できて、量も値段も抑えめな料理を、通常メニューとは別に提示してくれます。
これならば嫌いなものは食べなくていいし、少なくとも自分で注文するものなのですから、不満も出ないでしょう。
「安くてすぐ出るお通し」ではなく、逆に「豪華なお通し」を出すお店もあります。
いきなり「刺身盛り合わせ」とか「赤海老の塩焼き」とかがドン!と出てくるタイプです。
個人的な印象ですが、日本酒中心の居酒屋とかで多いですね。
こういうお店は、飲み会とかで使えば盛り上がりそうです。
いきなり豪華な料理が「お通し」として出てきたら「凄い!」となるでしょうし、「あのお店、お通しが超豪華だった!」と話題にもなるでしょう。
普通に注文するよりは値段が安く設定されているのは、お店も「話題にしてもらう」=「宣伝料」のように考えているのかもしれません。
ただ、この形式は「好き嫌い」の問題には対応できていません。
さらに「多少安く設定されている」と言っても、100円200円というわけにはいきません。
安くとも一人1000円以上はするでしょう。
1000円と言ったら、黒ホッピーセットを頼んで中焼酎を2回お代わりできる額です。
私のような貧乏性な人間は、いくら豪華でも「1000円払うならホッピー飲みたい」と考えてしまいます。
損得を考えて酒を飲むのもどうか、とは思いますが、やっぱり「損だ」と感じてしまうんですよね。
個人的に「これなら満足」というお通しの例を挙げてみましたが、「だからお通しは出すべき!」という結論に達することはできませんでした。
やはり「お通しは不要」という結論でまとまってしまうようです。
ただ、一つだけ。
先に例として挙げた焼き鳥屋ですが、通い始めたころに店長とお通しについて話したことがあります。
焼き鳥や他の料理の仕込みと並行して、毎日違った料理をお通しとして数種類作るのは大変でしょう、と。
「でも、毎日同じものを出してもお客さんが飽きちゃうし、食べたくないものを出しても悪いしね」
店長は大量の焼き鳥と格闘しながら、笑顔でこう答えてくれました。
このお店は、そんなお店の姿勢と店長の人柄を慕うお客たちで連日満員です。
こういう心からの「おもてなし」の心を伝えられるのなら、お通しも悪くないと思えるのですが……。
今の低コストを追求しなければ売り上げが厳しいと言われる居酒屋業界では、それもちょっと難しいのかもしれません。
食べたくなるお通し、食べたくないお通し
居酒屋に行くとどうしても避けられない問題があります。
それは「お通し」の問題です。
正直に言って、「お通しがなぜ必ず出てこなければならないのか、理解できない」という人の方が多いのではないでしょうか。
私もその一人です。
何故、食べたくもないものをいきなり出され、それを素直に受け入れなければならないのでしょうか。
しかも、サービスならばまだしも、ちゃんとお金は取られるのです。
完全にお店の都合でしかありません。
この、お客のほぼ全員が「不要じゃないの?」と思っている風習が、いまだに、さも当然のように行われていることが不思議でなりません。
いっそのこと「席料」としてお金を取る、という方がまだ納得できます。
そういうものなのだ、と諦めることができます。
なんか「お客のためを思って出している」みたいな顔で出されることに「ちょっと待てよ」という気持ちになるのです。
特に全国チェーン系の居酒屋で出される、キャベツに塩ダレがかけられて、塩昆布が乗せられているみたいなお通し。
私は時々、一人でそういうチェーン系の居酒屋で飲むこともあります。
店員さんとも他のお客とも話す必要がほぼないので、考え事とかしたい時にはけっこう良いのです。
大勢で、箸休め的につまむのであれば、このキャベツもまあ許せます。
しかし、一人の時にこの大皿に乗ったキャベツをお通しとして出されても、正直困るのです。
めちゃくちゃ持て余すのです。
一人で大量のキャベツをもっしゃもっしゃと食べていると、「なんだ、私はウサギか何かだと思われているのか」とわびしい気持ちになるのです。
そういう時は、席に座って注文する際に「お通しってキャベツ?」と聞くようにしています。
「はい」と答えられたら「お通しなしってできます?」と尋ねます。
ここで「大丈夫ですよ」と言ってもらえたら、もうその時点で私のお店に対する評価は頂点に達します。
お通しの分以上にいっぱい頼んで、いっぱいお金を払えるように頑張ります。
しかし、大抵の場合は「ちょっとできないんですよ」と言われてしまいます。
まあ、これはよくあることです。
その場合は「じゃあ、キャベツは出さなくていいです。お通し分のお金は取っていいですから」と譲歩します。
ここで「わかりました」と言ってもらえればなんの問題もありません。
ちょっと不思議そうな顔をされることもありますが、食べたくないものを食べさせられるくらいならお金を払った方がマシです。
しかし、「いや、それもちょっと……」と言われてしまうことがあるのです。
なぜそこまでしてキャベツを出したいのでしょうか。
客がいいと言っているのに。
キャベツを出さないと時給を下げられるとか、店の裏に呼び出されて「なんでキャベツを出さない!」と責められたりするのでしょうか。
キャベツ業界と居酒屋業界の間で、決して破ることのできない協定が結ばれているのでしょうか。
それならば仕方がありません。
書いているうちに、キャベツに対する憎しみがすごいことになってしまって自分でも驚いています。
キャベツは何も悪くないのです。
なんとも微妙なお通しが出て、こちらもそれ以上に微妙な顔になってしまうこともあります。
前日の残り物を煮込んだだけ、みたいな。
美味しければまだいいのですが、冷蔵庫に入っていたと思われる、冷え切った煮物を食べて、こちらは何をお店に対して期待すればいいのでしょうか。
その後にどんなに素晴らしい料理が出てきたとしても、たぶん店を出た後に思うことはこれでしょう。
「でも、お通しがイマイチだったなぁ」
お通し一つで、良い思い出も台無しです。
お通しをどうしても出したい、と言うのなら、お客が喜んで食べるような美味しいものを出してもらいたいのです。
適当に、「何か出しとけばいいや」くらいのものが出てきてしまうから、お通しに対して批判的な意見が多くなってしまうのです。
お通しとは、お店に入って一番に口にする、顔のようなものでしょう。
居酒屋はもっと真面目にお通しについて考えてほしい、と思います。
もちろん、お通しについて真剣に取り組んでいて、美味しいお通しを出してくれるお店もあります。
それを紹介しようと思っていたのですが、けっこう長くなってしまったので……。
明日にでも続きを書くかもしれません。
Twitterでやってる「現金プレゼント」ってすごいよね
昨日、Twitterを眺めていて、「現金プレゼント!」というツイートが流れてくるのを見かけました。
Twitterを始めて日が浅いとは言え、こういう企画があることは私だって知っています。
ZOZOTOWN前澤社長の「1億円プレゼント」とか、すごく話題になりましたしね。
これもそういうものの一環なのか、世の中には景気の良い人もいるものだなぁ……とか思っていたのですが。
それにしても桁が違いすぎます。
前澤社長の1億円どころではなく、10億とか20億とか……。
流石に非現実的すぎませんか?と思ったので、ちょっと調べてみました。
まあ、結論から言ってしまえば、こういう企画はほぼウソなようです。
それはそうですよね。
前澤社長の二番煎じとは言え、実際にこんなに多くの現金プレゼントが行われているのであれば、少しは騒ぎになってもおかしくないはずです。
「本当に映った心霊動画」とか、めちゃくちゃはっきりと霊が映った映像をテレビで流すことがありますが、それが騒ぎにならないのと同じ。
本当に霊があんなにはっきりと映っていたなら、心霊・オカルト業界だけでなく、科学業界、宗教業界など、至る所が大騒ぎになります。
それなのに、どこも騒がないということは……?
加えて、こういった現金プレゼントを行なっているアカウントは、「社長」や「年収○○億」を名乗っていることが多いです。
しかし、どこの誰かははっきりとしません。
前澤社長の現金プレゼント企画で、とてつもない宣伝広告効果がある、と証明されているのに、これらの「社長」は会社の名前や実名を出さないということは……?
「年収○○億」の人とかはさらに胡散臭いですね。
いくらお金儲けしているとは言え、無償で他人に施すには限度があります。
「人に喜ばれたいから」とか「皆さんの夢を応援するため」とか、それっぽい理由を書いていますが、ちゃんちゃら可笑しいです。
もちろん、お金を稼いだ人の中には、寄付をする人なども大勢います。
しかし、そのほとんどは「誰に」「どのような理由で」「どのくらいの額を」寄付するのか、が明確になっています。
逆に言えば、理由が明確でなければ、大金の提供には違和感しか存在しないのです。
そんなことをするのは、よほどの変わり者か、欲の無い人間くらいでしょう。
そしてそんな変わり者や無欲な人間には、そんな大金を稼ぐことは(不可能とは言いませんが)難しいとは思いませんか?
結局、こういった現金プレゼントアカウントの目的は、「フォロワー集め」なのでしょう。
プレゼントの条件として「フォロー&リツイート」がほとんどの場合で提示されていることからも、それはわかります。
ここで集まったフォロワーに対し、一気に情報商材の案内などもできますし、使いようは山ほどあります。
それになにより、フォロアーが大量に集まっているアカウント自体が、高値で取引されているという事実もあります。
何より驚いたのが、こういった「いや、どう見ても詐欺じゃないの」と思えるプレゼント企画に、数多くの人が参加してフォローやリツイートをしている、という事実でした。
私がちょっと調べただけでも、どう考えても怪しいという結論しか出なかったのに。
いや、フォローやリツイートしている人たちも、本当に現金がプレゼントされるとは思っていないのかもしれません。
でも、万が一本当だったら。
せっかくの大金を手にするチャンスを、みすみすドブに捨ててしまったら。
そう考えると、信じていないながらもフォロー&リツイートしてしまうのでしょう。
「フォロー&リツイートするくらいなら、別に構わないだろう。こちらが損をするわけでもないし」という意見も目にします。
でも、ですね。
そういった心でフォロー&リツイートする人間のことを、先方は「ああ、こいつらは欲深くて騙されやすい人間だ」とリスト化しているわけです。
詐欺師にバカにされるとか、悔しくないですかね?
「オレオレ詐欺(母さん助けて詐欺)」とか「貴方に現金が当たりました」メールとか、昔からあって誰でも知っているような詐欺がまだ生き残っている理由が、この事実を見るとわかるような気がします。
だって、まだこれだけの「騙される人予備軍」が存在しているんですからね。
大量の魚の群れを見つけたら、漁師は網を投げる、当たり前のことです。
一応フォローと言うかなんと言うか。
すべてのプレゼント企画が「ウソである」と言うことはないようです。
数千円、数万円とか、ちょっとした小物的なプレゼントとか、○億円に比べると圧倒的に地味ですが、こちらは信頼できる……可能性が高そうです。
あくまでも「可能性が高い」であって、もし貴方が少額プレゼントアカウントに騙されても、私は責任は取りませんが。