zatubunsya’s blog

アラフォーオヤジが何か考えたことを考えたままに書き連ねさせていただいております。

忘れようとしても、思い出せないこともある

現在、フジテレビで『古畑任三郎』を傑作選という形で放送しています。

私はこのドラマが好きで好きで……。

何度も繰り返し視聴したものです。

 

特に好きなのが、第2シーズンの初回『しゃべりすぎた男』。

犯人役は明石家さんまさん。

敏腕弁護士・小清水潔役を演じています。

古畑任三郎を演じる田村正和さんの相手をスカすような飄々としたしゃべり方と、さんまさんのキャラクターそのままのマシンガントークの台詞回しが非常に噛み合っていて、強く印象に残っています。

 

特に好きだったのが、クライマックスの法廷シーンです。

この『しゃべりすぎた男』も放送ラインナップに入っていたので久しぶりに視聴したのですが、このラスト15分くらいの法廷シーンの全セリフをほぼ完全に覚えていたことに、我ながら驚きました。

台詞内容だけでなく、息継ぎや登場人物同士の掛け合いのタイミングまで、すべてです。

 

好きすぎてこのシーンだけでも数十回繰り返し見ましたし、ノートに台詞を書き出していたこともあります。

やはり「書く」という行動は、自分の脳に記憶を焼き付けるのに非常に役に立つようです。

 

しかし、受験勉強で散々書いて記憶したはずの内容は結構忘れてしまっているので……。

やはり「好き」という気持ちも、物事を覚えるには重要なのでしょう。

 

ちなみに、今回の記事タイトル「忘れようとしても思い出せない」も、昔視聴していたアニメ『平成天才バカボン』の主題歌『タリラリラーンロックンロール』(作詞/作曲/歌・嘉門達夫)から採っています。

どうやら、こういったあまり役に立つとは思えない記憶で私の脳のメモリーはだいぶ埋まってしまっているようで……。

それをネタにこうしてブログを書けているわけですから、完全に無駄とは言い切れないのですが、もう少し生活の役に立つ知識を貯めておきたかった、とも思います。

 

ところで、「忘れようとしても思い出せない」記憶、というものは持っているでしょうか。

子供の頃は「思い出せないなら、それはもう忘れているってことじゃないか」と単純に考えていたのですが、アラフォーになった今、人間の記憶とはそんなに単純なものでもないな、と思っています。

普段は思い出せない記憶が、突如としてフラッシュバックしてくることが多くなってきたからです。

 

しかも私の場合、そのほとんどが「悪い記憶」であるのが性質の悪いところです。

子供の頃に怒られたことだとか、仕事のミスだとか。

そしてそれは、心が落ち込んでいる時にやってきます。

「あんな事があった」と急に思い出され、それに連鎖するようにさまざまな悪い記憶が甦ってくるのです。

そのせいでさらに心が落ち込み、その辺を転げ回りながら「あー!」と叫びたいくらいになります。

しばらく耐えているうちに、次第に平常心に戻ってはいくのですが……あまり気分の良いものではありません。

 

しかし、平常状態の時に「あれ、なにを思い出してあんなに辛かったんだっけ」と思い出そうとしても、思い出せないのです。

とにかく辛い、嫌な思い出がある、しかしその具体的なエピソードが出てこないのです。

これは一体、どういった心の作用なのでしょうか。

 

普段は思い出したくなくて、心の奥底で鍵をかけているものが、何かの拍子に溢れ出してきてしまうのでしょう。

人間が積み上げてきた記憶は、そう簡単に消すことはできない、ということです。

「これは覚えておく、これは忘れる」と取捨選択ができればいいのかもしれませんが……それも機械のようで、「人間らしさ」が失われてしまうような気もします。

 

「忘れようとしても思い出せない」、『平成天才バカボン』の主題歌は、大人になったからこそ理解できる深いことを言っていたのだなぁ、と令和になってから改めてしみじみと感じた次第です。

 

急にまた一つ、思い出しました。

古畑任三郎』傑作選の放送は、同作の脚本を書いた三谷幸喜さんの新作映画『記憶にございません!』のPRを兼ねて、のもののようです。

『記憶にございません!』は嫌われ者の総理大臣が主役の映画。

そして三谷幸喜さんと総理大臣と言えば、その昔『総理と呼ばないで』というドラマがありまして……。

まあ、ちょっと内容的には微妙だったな、ということを思い出しました。

 

本当、無駄なことばかり記憶しているなぁ……。

女子高生が車を買うことを批判する「負け犬」の心理

昨日、ネットニュースを眺めていて、こんな題名が目に入りました。

「女子高生が中古の軽購入でなぜ批判殺到?」

まさか、いくら女子高生だからと言って中古車を購入しただけで批判が殺到するはずがありません。

なにかこの女子高生に落ち度があったのだろうか・・・・・・。

そう思ってニュース本文を読んでみました。

 

「ある女子高生がアルバイトで貯めたお金で中古の軽自動車を購入。

それをツイッターで投稿したところ、『高校生が車を購入するのは贅沢』『勉強もせず、アルバイトばかりするなんて』という批判コメントが相次ぐ。

結局、女子高生はツイッターアカウントを削除してしまった」

全文引用は長すぎるので、要点をまとめるとこのような内容でした。

あれ、これ女子高生なにも悪くなくないですか?

 

てっきり、「中古の高級車を買って、面白半分に叩き潰した動画をネットにアップした」くらいのことをしたのかと思いました。

それにしたところで、自分のお金で買った車なのだから別にどう扱ってもいい、とも言えます。

ものを粗末にすることは私も嫌いですし、常識がないな、くらいは思うでしょうけれど。

 

この女子高生が何年生で、どこに住んでいるのか、などという情報はありませんでした。

調べれば出てくるのかもしれませんが、ちょっとそこまで調べるのもな、と思いまして。

そこまで調べる気にならなかったのは、私は「女子高生がアルバイトで車を買ったって、別にいいじゃない」という考えの持ち主だからです。

まあ、自動車免許の取得ができるのは18歳以上からなので、高校3年生なのかな、と推察する程度です。

 

しかし、なぜ高校生が中古車を購入しただけで批判しようと思うのか、その心理がまったく理解できません。

大学受験をせず、高校卒業したら就職する子なのかもしれませんし、受験をするにしても「勉強だけしていろ!」という考え方はどうなのでしょう。

勉強もしつつアルバイトをし、教習所に通って車を手に入れたのであれば、すごい努力家です。

批判どころか、褒められてもいいくらいではないでしょうか。

 

「車を買ったら終わりではない、維持費もかかるし、駐車場代だってかかる」という考えから「贅沢だ」と言っているのでしょうか。

でも、そんなことは車を購入した女子高生自身だって承知のはずです。

他人がどうこういうべき問題ではないよな、としか思えません。

 

結局、この女子高生を批判している人たちは、「車を買ったのが女子高生だ」というただ一点だけで批判しているのです。

すごいですよね。

日頃、どれほど鬱屈した精神を抱えて生きているのでしょうか。

自分では中古車も購入できない、車を買って出掛けるほど充実した人生を送っていない。

 

そんな自分の日常の不満感を、見知らぬ女子高生にぶつけているのです。

しかも、「高校生には贅沢である」とか「学生の本文は勉強である」とかいう、一見「常識」に見えるフィルターをかけて、です。

「自分は間違ったことは言っていない」という考えで、女子高生を批判するという行動を正当化しているわけですね。

 

自分には持っていないものを持っている人間を不当に批判し、さらに自分は間違っていないと正当化する。

もう、典型的な「負け犬」の思考回路だと言えましょう。

それがどんなに情けない心理、行動なのか、ということを考えることもできない、考えることもしないのです。

 

私はこの女子高生の知り合いでもないですし、普段どんなことをツイッターで発信していたのかも知りません。

ひょっとしたら、なにか批判されるべき部分が女子高生にもあったのかもしれません。

そうは思いますが、それでも他人を批判して自分を満足させるような「負け犬」的心理の持ち主にはなりたくないな、と思わせるニュースでした。

「どうしても会社に行かなくてはならない」と思う思考の不思議

白鵬、初日負けて二日目から休場か……。

右手小指の骨折、それじゃ相手のまわしを取るのも大変だろうし、仕方ないですね。

 

と言うか、もう34歳。

普通に引退しててもおかしくない年齢でもあるし、無理はできないだろうし。

11月が進退を賭ける場所になるのかな……。

本人がどう思っているのか次第だろうけど。

 

白鵬のことも気になりますが、それ以上に気になったのが台風が二日目の取組に影響しなかったか、という点です。

国技館近辺に相撲部屋が集中していた時代と違い、今は各地に相撲部屋が分散している状態。

電車で国技館まで通う力士も多いですから。

 

ちなみに調べてみたところ、取組開始は予定より30分遅らせ、午前9時10分開始。

それでも間に合わなかった(電車の運行事情を考えれば仕方がないですが)序の口・序二段力士の取組は、順番を後ろに回すことで対応したそうです。

台風のせいで不戦敗なんて、さすがに泣くに泣けないでしょうからねぇ。

 

そんな感じで月曜朝の通勤に多大な影響をもたらした今回の台風。

駅に入るにも一苦労、延々と並ぶ長蛇の列。

電車に乗ったら乗ったでギュウギュウ詰めの満員状態、そして電車はなかなか進まず……。

それでも会社に行こうと文句も言わず頑張る人たち。

私のように「混んでるなら行くのやめよう」と自分で決められる人間には、やろうと思ってもできない、というかやろうとも思わないことができるのですから、ちょっと尊敬します。

 

もちろん、医療関係やライフライン関係など、どうしても出社しなければならないという人もいるでしょう。

だから「こんな時は会社に行かなければいいのに」などと簡単には言えません。

「休める人は休めばいいのに」と思うくらいですかね。

 

今の時代、こういう状況で「絶対に出社しろ!」なんて言ってくる会社って存在してるんでしょうか?

そんな指示を出したことがバレたら、ネット上で大炎上しそうな気がするので常識ある会社ならそんなこと言わないと思うのですが。

 

でも実際、ゼロではないのでしょうね。

そんな指示を出す会社には、最初から常識なんてないでしょうし。

そして、その指示に従わざるを得ない人は、「そういう指示が出た」ということをネット上で訴えることもしないでしょうし。

ネットに流したことが会社に知られたら、より大問題になるでしょうから。

その結果、そういった問題企業は世間の表に出てくることはない、と。

なんだかな、という気持ちです。

 

会社がこういった状況で出す指示としては、「状況を見て出社を決めてください」でしょうか。

しかし、その指示を聞いて「じゃあ休んでもいいや」と思える会社員も少ないかもしれません。

丸一日電車が動かないという「状況」なら休めるかもしれませんが、電車が動いている「状況」=出社できる「状況」、ならばどんなに大変でも出社しなきゃ!と考える人の方が多いように思います。

 

でも、ですね。

そんな「絶対に出社しなければならない」という人って、そんなにも多くはないと思うんですよ。

もちろん、やらなければならない仕事は誰にだってあるでしょう。

仕事がまったくないのに雇い続け、給料を出してくれる会社などというものは存在しません。

やらなければならない仕事があるのは当たり前、でもその仕事はどうしてもその日、出社しなければならない仕事か?と考えれば、実はそうでもないことが多いのです。

 

それでも出社しなければ、と考えてしまう人にとっては、仕事の内容以上に「出社する」という事実が会社員としての存在価値になってしまっているのかもしれません。

それが悪いことだ、とは思いませんが、ちょっとモヤモヤしたものは感じます。

いっそのこと会社から「出社厳禁」という指示を出すべき、という意見もあるかもしれませんが、そこまで会社の判断に依存しなければならないというのも情けなくないでしょうか。

 

会社員が自分の判断で「どうしても出社しなければならないか」を考えて、出社するかを判断する。

そして会社はその判断を尊重して、文句を言ったりしない。

そういう労働環境が完全に形成されれば、天災によって駅が大混雑、という恒例行事も緩和してくれそうなんですが。

いろいろ問題もありそうですし、そういう環境が作られるのも即座に、というわけにはいかないでしょうが、将来的にはそうなってくれるといいですね。

台風前日、昼から飲んじゃう男たちもいる

昨夜は激しい風雨で夜中に目が覚めました。

カーテンを開けてみると、街路樹がざわざわと、踊るように枝を左右に振り乱している様子。

一瞬、なにかが飛んできて窓を破ったりしたらどうしよう・・・・・・とか考えたんですが、よく考えたらいまだにうちのアパートは外壁工事の足場で囲まれておりまして。

なにかが飛んできて被害を受ける、という可能性は薄そうです。

 

それまで「音とかうっとおしい」と思っていた外壁工事のおかげで守られているという事実。

ちょっと複雑な気持ちになりながらも、安心して再び就寝しました。

 

起きてみれば雨も風も止んでいました。

道路は落ちた葉っぱと飛んできたゴミでぐちゃぐちゃでしたが、特に建物に被害があったわけでもなく。

このまま日常に・・・・・・とも思いましたが、ニュースやツイッターで各地の駅が大混乱と知り、やはり自然の力には敵わないな、と痛感しました。

 

そんな台風が東京に迫りつつある日曜日のお昼。

先日のブログにもちらっと書きましたが、私は人と会うためにお出掛けしておりました。

本来ならば夜に会う予定だったのですが、台風の影響も考えてお昼に予定変更したのです。

 

都内某駅で相手と合流し、喫茶店でちょっとした打ち合わせ。

それを終えたら、普段なら一緒に居酒屋に行くのですが、さすがに真っ昼間。

 

「一応聞こうか。昼だけどどうする?」

「昼だから飲まない、という選択肢があるの?」

「じゃ、昼からやってるところに行くかね」

「ああ、アソコね」

付き合いが長いとこういう時に話が早くて助かります。

 

台風でお休み、というパターンだけを心配していたのですが、無事営業している様子。

ガラス戸を引いて中に入るとさすがは日曜日、私たち以外にも数組のグループ客がすでに盛り上がっている様子でした。

ちょっと薄暗い店内の照明も手伝って、真っ昼間から夜へ一気にタイムワープしてきたような感覚になります。

 

店員さんに導かれるまま、カウンター席に横並びに座るアラフォーオヤジ二人。

私が注文するのは、当然黒ホッピーです。

 

そしてこのお店での定番、モツ煮込みを頼みます。

大鍋からすぐに運ばれてきたモツ煮込みは、ちょっと甘めの白味噌仕立て。

蒟蒻などは入っておらず、野菜も大根や人参の角切りが申し訳程度に姿を見せる程度で九割はモツ。

「肉を食え!」という、力強いお店からの主張を感じます。

一味唐辛子をたっぷりと振って口に運べば、肉の旨味と汁の甘味、唐辛子の辛味が押し寄せてきて、ホッピーが進むこと進むこと。

 

このお店、やきとりかやきとんかで盛り合わせが選べるのも嬉しいところ。

「あと、やきとんの盛り合わせ。それと中のお代わり!」

煮込みを食べてガッツリ肉モードに入った私たち、こういう時はやきとりよりもやきとんです。

 

アルマイトの皿に乗って出てきたカシラ、ハラミ、レバー、シロ、ハツ。

好きな串をそれぞれ手に取ってかぶりつきます。

串から外してシェアする、なんてことはしません。

串に刺さっているものは、串のまま食べるのが一番なのです。

「あ、それ食べたかった!」という時には、もう一本注文すればいいのです。

 

あらかじめ盛り合わせを二人分頼む?

そんなことをしたら、せっかくの串焼きが冷めてしまうじゃないですか。

 

ガッツガッツと肉を食い、食べたいものを追加注文し、黒ホッピーを喉に流し込んで肉の脂をさっぱりとさせます。

満足度が半端じゃありませんね。

 

「久々に日本酒を飲むかな」という知人に合わせ、升酒を冷やで注文します。

「常温ですよね?」

念のための質問に「もちろん!」と返してくれる店員さん。

小皿に乗せた升から溢れるギリギリまで、目の前で一升瓶から注いでくれます。

粗塩の入った小皿を当たり前のようにサッと出してくれるのも、変わっていなくて嬉しいですね。

 

粗塩を升の隅にちょいっと乗せ、そこからクッと日本酒を喉に流し込みます。

久しぶりの日本酒は、ホッピーで冷えたお腹の中をふわっと優しく暖めてくれます。

ああ、やっぱり美味しいですなぁ。

日本酒はどうも飲むと眠くなってしまう体質なのですが、もう帰って寝るだけなのですからなんの問題もありません。

 

そんな感じでけっこうな飲み食いをしましたが、店を出たのはまだ午後4時過ぎ。

まだ電車も余裕で動いています。

もう一軒・・・・・・といきたいところでしたが、夜にかけて電車が止まるかもしれない状況。

酔っ払い状態で混んだ電車に乗るのも他の乗客に悪いので、大人しく帰宅しました。

 

普段はあまりできない昼飲み、たまにはいいものだな、と電車に揺られながらしみじみ思った台風前日の思い出でした。

地域の「お祭り」に参加する窮屈さ(私は参加しないけど)

本日は昼から人に会う予定があります。

というわけで、いつもより早めにブログに手を出しています。

最近は夕方、「そろそろ何か書くかな」と思い立ってから1時間くらい結局手を出さずにダラダラし、その後サクサクっと30分くらい集中して書く、というスタイルが続いていたので、午前中からブログを書くのは新鮮ですね。

 

「人に会ってから書けば?」という、ごもっともなご意見もあるでしょう。

しかし、たぶん今日は昼から酒を飲みます。

さすがに酒を飲んだ後、ブログを書くという強い意志を持ち続ける自信は、ちょっとありませんので。

 

昼酒、いいですよね。

「癖になりやすい」「アル中になりやすい」という話もありますので、たまにしかやりませんが。

あ、ここ、「たまにはやるんだ」と突っ込むところですよ。

しかし、タイトルに関係ない前置きが長いですね。

 

私のアパートのすぐ近くに小さな地域の集会場があります。

そこで、昨夜お祭りが開かれていたんですよ。

お祭りと言っても、屋台が出るとかそういう立派な奴ではなく、地域の住民が集まって酒を飲み、カラオケを歌うという集まりです。

当然参加するのは「昔からこの辺りに住んでいる」住民たちであり、私のような「外部からの転入者」はあまり参加しません。

ちなみに私は、知らないおじさんおばさんのカラオケなんて聞きたくもないので、さっさと家を出て飲みに行きました。

 

このように私は「参加したい」という気持ちはまったくないのですが、以前居酒屋で知人(代々この地に住まう地元民)と話していて、「祭りに参加したい」という転入者がそこそこいる、という話を聞いて驚きました。

ただ、「参加したい」と言う人は、この辺りに家を建てたとか、マンションを買ったとか、そういう人が多い、と聞いてちょっと納得もしました。

「家を購入した」ということは、この地で、少なくとも自分は死ぬまで生活していくつもりなのでしょう。

そう考えた時、地域住民の中に溶け込んでおきたい、と思うのは当たり前の感覚なのかもしれません。

 

私のような賃貸アパートに住み、別にずっとこの地に住まうつもりもない人間とは感覚が違う、ということでしょう。

その割には同じアパートに住むこと10年以上経過しているのですが。

これは「この地が気に入っている」というわけではなく、「引っ越しが面倒臭い」というだけの理由です。

 

知人によると、「参加したい」という申し出があったら断ることはない、とのこと。

現に、数年前から参加するようになって仲良くやっている、という家族もちょいちょいいるようです。

それ自体はとてもいいことですが、やはりどこか馴染めず、参加しなくなってしまう人もいる、とのこと。

 

祭りに参加することは義務ではない(義務だったら私は許される存在ではない)ので、参加しようがしまいがどうでも良い、というのが私の考え方です。

実際、近所の人たちと別に交流がなくても、私はこの地に10年以上、問題なく暮らしているわけでして。

 

むしろ、「近所の人間と付き合いたくなくても付き合わざるを得ない」という超ド田舎からやってきた人間としては、「地域の付き合いなんて面倒なだけ」です。

あっちに気を使い、こっちに気を使い、地域の行事を手伝って……みたいな親の姿を見ていたので、同じことは絶対にやれません。

やる気もありません。

 

でも、やらないと陰口たたかれて、仲間外れにされるんですよ。

田舎の人間の陰湿さは田舎の人間がよく知っています。

若い人たちはまだ「やりたくないなら別にいいんじゃない?」な感じですが、老人たちが、ねぇ……。

 

そういう面倒な人間関係を見てきた人間からすると、わざわざ引っ越してきてまでそんなものに参加するなんて、どうかしてるんじゃないの、という気持ちになるのです。

せっかく人間関係が希薄でも問題ない都会に住んでいるのに、もったいない。

 

まあ、こういう集まりに参加して「心から楽しい!」という人も多いのでしょうし、それに対して文句はありません。

私は参加しないけど、というだけの話です。

でも、みんなで楽しんでいるように見えるけど、中には人間関係で苦労している人もいるんじゃないかな、と。

そう考えると、まったくありがたくない迷惑なだけの素人カラオケも「まあ、頑張りなさいな」と寛大な心で受け入れられるのです。

力士の四股名、もっと伝統的な名前を継いでもいいんじゃないか問題

明日から大相撲九月場所が始まりますね。

最初、なぜか「七月場所」と打ってしまいました。

自分の中に謎の二ヶ月間もの空白期間が存在しているようで驚きました。

毎日あまり刺激も、代わり映えもない生活を送っている弊害でしょうか。

少しだけ落ち込みました。

 

それはともかく、九月場所が始まります。

舞台は東京・両国国技館

鶴竜の連続優勝か、日本国籍を取得した白鵬が意地を見せるのか。

それとも横綱以外の誰かが優勝を奪うのか。

 

大関カド番の豪栄道栃ノ心大関の地位を守れるのか、二場所連続負け越しで関脇に下がった貴景勝は十勝して大関に返り咲けるのか。

などなど、注目する点は多々あります。

 

私は国技館にまで相撲見物に出掛けるほどの熱心なファンではありませんが、テレビ桟敷で観戦できる時には観戦しようかと思っています。

とは言ってもなかなかリアルタイムで観戦するのは難しく、ネットで結果だけ知るか、深夜の「幕内の全取組」を見るか、というくらいなのですが。

 

それにしても、最近は力士も皆、個性的な四股名を名乗るようになりました。

それはそれで時代に則したものですし、わざわざ「初代」とか「二代目」とか付けずとも誰のことを言っているのかすぐにわかる、という点でも優れているかもしれません。

でも、「独創的な四股名ばかりではなく、伝統的な四股名を襲名する力士がもう少しいてもいいんじゃないかな」とすこしばかり寂しく思うこともあります。

現在だと、時津風部屋の元大関の名を継いだ幕内の「豊山」、父親の元関脇の名を継いだ佐渡ヶ嶽部屋十両琴ノ若」くらいでしょうか。

 

琴ノ若の場合は親子ということもあり、伝統的な四股名を継ぐ、というものとは少し違うかもしれませんが。

でも、昔から大相撲を見てきた人間にとっては「ああ、あの琴ノ若の息子か。じゃあちょっと応援しようかな」という気持ちにもなれます。

豊山の場合も「この四股名を継いだということは、期待されているんだな」と注目するようになるでしょう。

せっかく国技を名乗り、なかなか長い歴史を持っているのですから、それを活用しない手はない、と思うのですが。

 

もちろん、それなりの実力がなければ伝統的な四股名を名乗らせるわけにはいかない、という理由もあるでしょう。

力士の方も、四股名を継いで発奮してくれればいいのですが、逆にそれがプレッシャーとなって押し潰されてしまう可能性はゼロではありません。

確かに「お前は明日から双葉山を名乗れ」とか言われても、「いや、それはちょっとキツいっすわ」となってしまう気もします。

 

偉大すぎる四股名は名乗りづらいかもしれませんが、例えば部屋期待の力士が師匠の現役時代の四股名を継ぐ、みたいな例がもっと出てきても良いと思うのです。

朝潮」とか「小錦」とか「増位山」とか、伝統的な四股名を名乗る力士に出てきてほしいのです。

「谷風」や「雷電」が令和の土俵に上る姿を見てみたいのです。

 

昨今の相撲界に関するさまざまなニュース、報道などを見ていると、どうにも力士が個人主義的になってしまっているのではないか、と感じます。

もちろん、土俵の上では頼れるのは自分だけ、個人の実力がモノをいう世界だ、ということは理解しています。

 

ですが、せっかくの伝統ある業界なのですから、力士たちにも個人のことばかりではなく、もっと相撲界全体のことを考えて、これからも「国技」として愛されるように土俵上を盛り上げてほしい、と一人のファンとしては思うのです。

そのきっかけは伝統的四股名の復活にある、私はそう考えています。

「アヒージョ」に対するアラフォーオヤジ的な感想

最近、いろいろな居酒屋で「○○のアヒージョ」がメニューとして取り入れられてきているな、と感じています。

先日はコンビニ、確か「サンクス」でしょうか。

カニカマのアヒージョ ガーリック風味」みたいな商品を見つけて、つい購入してしまいました。

お店も商品名もうろ覚えなのは、酔っていたためです。

 

食べてみたところ、美味しかったです。

お店で食べる時のように「オリーブオイルたっぷり」という感じではなく、容器の底にちょっとだけオイル、という感じでしたが。

まあ、コンビニの商品でオリーブオイルがたぷたぷ入っていても、という感じなので、それは良いでしょう。

ただし、私はカニカマも好き、ニンニクも好き、という人間ですので、多分アヒージョでなくてもこの商品は美味しい、と感じたことでしょう。

つまり、この感想は「食レポ」としては何の役にも立たない、ということを自信を持ってお伝えしておきます。

 

初めて私が「アヒージョ」の存在を知った時、それはそれは驚きました。

「オリーブオイルで食材を煮る」って、もうそれは油を直接飲んでいるようなものじゃないのか、と。

そんなものを食べていたら、おデブさん一直線ではないか、と。

 

そう感想を述べたところ、「唐揚げとか天婦羅だって似たようなものでしょ」と言われました。

そうなのでしょうか。

何となく理屈は合っているような気もしますが、イマイチ納得しかねているのは、私が頭の固いオヤジだからなのでしょうか。

 

「でも、食べ終わった後に器に油が残るわけじゃないですか。その油、どうするの? 飲む以外の選択肢があるの?」

この質問でおわかりかと思いますが、私は「出てきた料理は食材の一欠片、調味料の一滴まで料金の範囲だから残したくない」という貧乏性です。

 

「飲む人はあまりいませんけど、バゲットを浸して食べる人はいますね」

なにそれ、怖い。

この「低脂質、低炭水化物」の時代に完全に逆行する行為ではありませんか。

デブ製造機以外の何者でもないではありませんか。

 

私はそれほど太ることに関して気を使っているわけではないんですけどね。

気を使っていたら、私のお腹はもう少し自己主張は控えめであることでしょう。

美味いものを食べたら太る、残念ながらそれが世界の摂理です。

 

話は急に変わりますが、私はアヒージョを見ていると「眼球エステ」を思い出します。

インドの伝統医学「アーユルヴェーダ」で「ネトラバスティ」と呼ばれるものです。

 

簡単に説明しますと、仰向けで寝たところに、小麦粉を水で練ったパン生地みたいなもので目の回りに土手を作ります。

ウルトラセブンの「ウルトラアイ」みたいな感じです(わかりやすそうでわかりにくい例え)。

で、そのパン生地の土手の中に溶かしたバターを流し込み、その中で目を開いて眼球を洗う、というもの。

 

これも最初聞いた時は、「なにその古代王国伝統の拷問みたいなやつ」と戦慄したものです。

実際試してみた人によると、めちゃめちゃ目がスッキリして効果抜群、という感想が多いのですが。

幸いにも私は、自分で体験したことはありません。

たぶん、そんなお洒落な施術をしてくれるようなお洒落なお店には一生縁もないでしょうし。

アラフォーオヤジは「お洒落」に対して過度に怯えます。

 

あれ、何の話でしたっけ。

そうでした、アヒージョの話でした。

 

「アヒージョって艶女アデージョ)と響きが似てるよね」と話した時、若い子があまりピンときていないようでした。

考えてみれば、「艶女」とか「ちょいワルオヤジ」とかが流行したのも、もうだいぶ昔のお話。

もう若い子には通用しなくなっているのか‥‥‥。

 

試しにグーグルで「アデージョ」「艶女」と検索してみたところ、ちょっとエッチなお店が大量ヒットする始末。

やばい、もう完全にオヤジの感性じゃないですか。

アラフォーオヤジなんだから、当たり前なんですが。

 

結局「私はオヤジである」という結論に達してしまいました。

長々と書いてきたのは一体なんだったのでしょうか。

でもなんだかんだ言って、アヒージョは美味しいですよ、うん(精一杯のフォロー)。