zatubunsya’s blog

アラフォーオヤジが何か考えたことを考えたままに書き連ねさせていただいております。

「表現の不自由展・その後」騒動に思うこと

「表現の不自由展・その後」が中止された件、いまだに「当然だ」派と「再開すべき」派でざわざわしているようです。
個人的に思うことは、最初から「表現の不自由」がテーマとなっているのだから、批判が起こることは当然として対応策を予め練っておくべきではなかったのか、ということです。
批判を受けて中止してしまうのでは、せっかく「表現の不自由」をテーマとして開催した展示の意味がなくなってしまいます。

そうは思いますが、それでは展示されたものが「表現の不自由」を表現するのに妥当だったのだろうか、と考えると、そこには疑問符を付けざるをえません。
つまり、「少女像」や「天皇の写真」という素材は、見た人間に「表現の不自由」を考えさせるものなのでしょうか、という点です。

残念ながら、私はそうは思いません。
その理由は、これらが「芸術性」や「表現の不自由」を考えさせる以前に、見た人間に対して「政治的な主張」を感じさせてしまうものだからです。

私は実際に展示を見たわけではありませんが、いったいどのような展示法が採られていたのでしょうか。
ただ単に展示品が置かれていただけ、なのでしょうか。
それとも、プレートなどで作者の展示品に込めたメッセージや意図などが説明されていたのでしょうか。

もし、ただ単に展示品が置かれていただけだとしたら、それはいささか不親切である、と言えるでしょう。
通常の美術館に収蔵された絵画や彫刻などの「美術品」であれば、余計な説明文は不要でしょう。
客はそれらの展示品を見て、美しさを感じることが目的であるからです。

しかし、それらの「美術品」とは違い、「表現の不自由展・その後」の展示物は、見た人間に考えさせることが目的のはずです。
何のテーマも提示せずに、見た人間に「自由に考えなさい」という手法を取るべきではなかったのではないでしょうか。
もしテーマが提示されていたとしたら、それが完全に伝わらなかった、という点でその提示が不十分だったのでしょう。
展示された品と「表現の不自由」というテーマがどのように結び付くのか、その導線がしっかり引かれていなければ、議論にすらならないのです。

私は反対派と擁護派の言っていることに噛み合わない部分がある、と感じています。
擁護派は「表現の自由が暴力や権力によって侵害されてはならない」と言います。
しかしおそらく、反対派もそれと同意見は持っているはずです。
ただ、その手段として「少女像」「天皇の写真」を使うことに違和感を感じているというのが反対派なのではないでしょうか。

これがもし「少女像」ではなく、「ナチス親衛隊の像」であったとしたら、どうでしょうか。
戦争と平和を考える」というテーマであるとしたら、どちらでも良いはずです。
どちらも相当の批判を受けるであろう、という前提条件も同様です。

ここで「少女像」の展示を選択した、という時点で、見た人が企画者側の政治的な意見を感じ取ってしまった、ここが一番の問題なのでしょう。
「表現の不自由」について考えさせるところまで、この展示が達していないのです。
展示会のテーマを見た人間に届けることができなかった、この「表現の不自由展・その後」の失敗はそこなのではないでしょうか。