zatubunsya’s blog

アラフォーオヤジが何か考えたことを考えたままに書き連ねさせていただいております。

「立川フロム古書市」訪問記

先日、「渋谷大古本市」を訪れてから2週間あまり。
あの日はめちゃくちゃ暑かったな……と、もうすでにちょっと懐かしく思い出されます。
最近は多少涼しくもなり、特に夜などは過ごしやすくなってきていますね。

考えてみればもう8月も終わり。
このまま秋になり、冬になり、季節は巡り巡って年が変わり、そして私はまた1つ無駄に年齢を重ねるのでしょう。
突然のマイナス思考。

それはともかくとして。
昨日は私、東京都立川市立川駅のすぐ近く「フロム中武」ビルで行われている「立川フロム古書市」に行ってきました。
またか、と思われるかもしれませんが、行ける範囲で古本市が開催されているのなら、行かないわけにはいかないのです。
それが世界の決まりなのです(そんな決まりはありません)。

「立川フロム古書市」は、「渋谷大古本市」と比べると小規模な古本市です。
広さ的には半分程度でしょうか。
でも、古本市は広さではありませんから。
どんな本が置かれているか、ですから。

というわけで、1時間ほどかけてじっくりと見て回りました。
思ったよりも短時間で済んだのは、本以外にCDやVHSのコーナーなどもあったからです。
それはそれで興味深かったんですがね……。
光GENJIのミュージックビデオなんて、久しぶりに見ましたよ。

いや、ウチにも昔の映画とか、結構VHSテープが転がっているんですけどね。
もうデッキがなくて、視聴する手段もないんですけど、今後絶対にDVD化しないであろう変なB級映画とかも多いんで、捨てるに捨てきれないんですよ。
だからってこのままにしておいても仕方がないんで、いつかなんとかしたいんですけどね……。

話が逸れました。
私が今回、購入した古本はこちら。

諸葛孔明』 著・植村清二 発行・中央公論社(昭和63年1月15日 1刷)
『自慰 抑圧と恐怖の精神史』 著・ジャン・スタンジェ/アンヌ・ファン・ネック 訳・稲松三千野 発行・原書房(2001年4月14日 第1刷)
朝日新聞100年の記事に見る 7 スポーツ人物誌』 発行・朝日新聞社(1979年8月1日)
『酒場の文化史ードリンカーたちの華麗な足跡ー』 著・海野弘 発行・サントリー株式会社(1983年4月5日 初版)
闇市』 編・マイク・モラスキー 発行・皓星社(2015年9月10日)

以上5冊、小計1900円でした。

相撲で絞った渋谷の時とは違い、見事にジャンルがバラバラです。
まあ、ただ単に読みたいものを手に取ったらこうなっただけなんですけども。
でも、思ったよりもトータルで安かったので、良しとするべきでしょう。

……と安心したのも束の間。
会場のビルを出て目の前に、かの有名な「BOOKOFF」があることに気付きました。
気付いてしまった以上は、行かないわけにはいかないのです。
それが世界の決まりなのです(そんな決まりはありません)。

結局、追加で数千円が飛んでいきました。
BOOKOFFは久々に行くと、ついついいろいろな本に手を出してしまいますね。
でも後悔はしていません。
後悔をするには、古本屋巡りは楽しすぎるのです。

まあ、買ったはいいけど読みきれない本が居住スペースを侵食しつつあることには、ちょっとだけ後悔していますが。
でも本好きなら積み上げた本の隙間で生活するなんて、当たり前のことですよね?

京アニ犠牲者の氏名公表はマスコミの断末魔である

京都アニメーション放火事件の被害者の実名が公表されました。
京都アニメーション側、被害者遺族側の了承を得ていない状態の発表であり、世論的にも「了承を得ていない以上、公表するのは適正ではない」という意見が大多数を占める中の公表です。

まず、被害者の実名情報をマスコミに提供した京都府警は、提供の理由についてこう述べています。
「社会的な関心が高く、事件の重大性や公益性などからも情報提供をすることがよいと判断した」
「取材や報道にあたっては、遺族の心情に配慮してほしい」
(NHKニュースより引用)

警察は「情報提供をするけれど、それを公表するかはマスコミ次第」という態度を取ったと言えるでしょう。
実名公表についての責任を負いたくない、丸投げの姿勢です。

一方、丸投げされたマスコミの側は、ほとんどが実名報道に踏み出しました。
その理由(という名前の言い訳)を各社ごとに1つ1つ挙げることはしませんが、総合するとこのような意見になります。

まず1つめ。
「事件の重大性、社会的な関心性の高さから、実名報道をする方がよい」

2つめ。
「事件・事故の内容に問わず、犠牲者名は原則として実名報道することとしている」

3つめ。
「事件の真相を伝えるためには、実名報道が必要不可欠である」

大きく分けてこの3つとなります。

1つめの理由については、京都府警の発言を踏襲したものです。
責任を丸投げした警察と同じ、責任回避のための理由、と言えるでしょう。

2つめの理由については、頷ける部分もあります。
確かに、過去の事件・事故などは被害者の実名が公表されることがほとんどです。
しかし「原則として」という言葉がしめす通り、必ず実名報道を行うわけではありません。

3つめの理由。
これは論外に近いでしょう。
被害者の実名を報道しなければ事件の真相が伝わらない、ということは決してありません。

このように、マスコミ側の「理由」は世論を納得させるに至っている、とは到底思えないものです。
それでは、なぜ世論の批判を浴びることが確定していながら、マスコミ各社は実名報道に踏み込んだのでしょうか。
それはマスコミ側に「世論によって自分たちの報道が左右されることがあってはならない」という意思があるからだと考えられます。

マスコミ側が一般大衆を下に見ている、と言いたいわけではありません。
情報公開の平等性、公益性を保つためには、世論によるケースバイケースではなく、原則として被害者の実名を公表する、という態度を明確にしたかったのでしょう。
つまり、今後も実名報道を行うために「京アニ事件に限り実名報道をしなかった」という前例を作ることを避けたかったのです。

ただ、私はそれ以上に、マスコミが「実名公表をしたくなくても、せざるを得なかった」という、追い詰められた状況を感じるのです。

現代社会では、情報収集の手段としてマスコミ以上にネット上の情報が力を持っています。
誤情報を流すことが絶対NGのマスコミに対し、ネットでは未確認情報でもどんどん流されることが多いと言えます。
それは、「常磐自動車道あおり運転暴行事件」の加害者女性デマの際に痛感しました。
マスコミがこのデマ事件について報道を始めたのは、情報がデマであると確定し、すでにネット上ではこのニュースが収束しつつあった段階でした。
「誤情報を流せない」マスコミは、常にネット情報の後追いを報道する立場に置かれているのです。

マスコミが情報の即時性、スクープ性でネットに遅れを取っている以上、確定した実名報道すらできないのでは、完全にマスコミは報道としての存在価値がなくなってしまいます。
自分たちの存在意義を少しでもしめすために、テレビや新聞といったマスコミは世論の批判を受けても実名報道をせざるを得ないのです。

世の中にはネットを見ない、見られないという人もいますから、まだマスコミにも価値はある、と言えるかもしれません。
しかし、今後は一般の人間がますますネット情報を重視する比率が高くなっていくことは確実です。
それに対抗するマスコミの手段としては「情報の正確さ」を重視するしかないのでしょう。

問題なのは、そのマスコミの「情報の正確さ」すら、すでに疑われているということです。
ネット上の情報に対抗する手段は、すでにマスコミから失われているのです。

京アニ事件犠牲者の実名公表は、報道機関としての価値を失いつつあるマスコミの苦し紛れの最終手段。
私が「京アニ犠牲者氏名公表はマスコミの断末魔である」というタイトルで今回のブログを書いたのは、それがすべての理由であります。

親の面倒、見られるか見られないか

昨日、このブログのアクセス数が跳ね上がっておりました。
「なんだなんだ、炎上か」
「ホッピービバレッジのお怒りか。なにか触れてはいけないことに触れてしまったか」
などと一瞬焦りましたが、どうやらそうではなく、はてなブログの「おすすめ記事」に掲載していただいたおかげのようです。

結局、昨日だけで418アクセスもいただいていました。
いや、他の方からすれば大した数字ではないのかもしれませんが、普段20人から30人くらいのアクセスで過ごしていた人間にとっては驚きの数字です。
もちろんこれは一過性のものであって、おすすめ記事から外れればまたいつも通りのアクセス数に戻るのでしょうが。
せっかく初めて訪れていただいた方に「また見に来てもいいかな」と思ってもらえるような記事を今後は書いていけるようになりたい、と改めて思いました。

さて、私がそんな決意を新たにしている一方で、実家の父親から電話がありました。
「老人ホームを探そうと思っている」
「いいんじゃないですか」
そこで、一応私にもどんなところに入るか知っていておいてもらいたいから、今度実家に帰ってきたときにでも何か所か一緒に見学に行こう、という話でした。

一応、両親共に健在でして、多少悪いところはあるけれどもありがたいことに健康状態も良好。
とは言っても、父親が後期高齢者の仲間入りも果たし、いつまで2人で暮らせるかわからないので今のうちに先のことも考えておきたい、とのこと。

正直、自分たちから「老人ホームに入ろうかな」と言い出してくれたことに、安心しています。
私も完全に生活の基盤が東京に置かれているため、もし両親のどちらかが倒れたりしたらどうするか、ということに多少頭を悩ませていましたから。
老人ホームも順番待ち状態で、入ろうと思ってすぐ入れるものでもないという話も聞きますから、まだ健康で動けるうちに入っておく、というのは悪い判断ではないと思います。

お金の問題も出てくるでしょうが、それはそれとして後に考えようかな、と。
なによりも、老人ホームに入って構わないのか、それとも子供に介護してほしいのか、その意思をはっきり聞けただけでもありがたいかな、と思います。
あらかじめそれがわかっていれば、私も両親の意思に合わせた動き方を考えられますので。

昔は親の介護は子供がするのが当たり前、という風潮があったように思います。
老人ホームに入るのは身寄りのない方、子供がいるのに老人ホームに親を入れるのは、姥捨て山に連れていくようなもの……。
20年近く前ですが、田舎の集まりでそんな言葉を聞いたこともありました。
(私の地元が超ド田舎で、老人ホームというものが身近になかった影響もあると思いますが)

今ではそんなイメージもすっかり変わり、専門のスタッフが常駐してくれているような老人ホームに入った方が子供に頼るより良い、という会話が両親の周囲でも交わされているそうです。
離れた場所に住む子供としてもそちらの方が安心ですし、良いことではないかと思います。

もちろん、今だって自宅で親の介護をされている方も多いでしょうし、そういう方のことは本当に尊敬します。
しかし、「介護疲れ」というキーワードや、それによる哀しい事件などを耳にすると、そこは割り切って考えた方が良いのではないか、と思ってしまうのです。

さまざまな事情で老人ホームに入りたくても入れない方がいることは承知していますし、なによりもそういった施設で働く方が過重労働や低賃金で大変な思いをしているということも知っています。
居酒屋で会う「飲み友達」の中に、介護の仕事をしている人も何人かいて、話をよく聞きますので。

でも、実際に介護に携わっている人たちは、なんだかんだ愚痴っぽく言いながらも、「人の役に立てているんだから頑張るしかないよね」と笑顔を見せてくれます。
本当、尊敬します。
照れ臭いので、言葉に出して直接そうは言えないんですが。

先日の参議院選挙で、れいわ新選組から障碍を持つ方が2名、当選されました。
賛否両論ありましたが、これを機会に障碍者介護の問題と共に老人介護が抱える問題も解決に向けて進展してほしいと、心から思います。
介護業界で働く方たちの待遇改善など、ずっと以前から言われていたことなのに、ほとんど改善に向かっていないようですし。

私だってもうアラフォーです。
人間である以上、これからどんどん年を取っていきます。
収入も少なく、貯蓄も心もとない身としては将来のことを心配ばかりしていますが、そうではなく、誰もが年齢を重ねることを楽しんでいけるような社会になってほしいと思います。

ここまで来たら徹底的にホッピーについて書きたいと思った

昨日はいろいろと雑事を片付けた後、ちょっとお久しぶりの居酒屋に飲みに行きました。
「どーも」と店員さんに挨拶しながらカウンターに座ると、即座に運ばれてくるおしぼり……と黒ホッピー。
そして店員さんが一言。
「ご注文は?」

もう持ってきておいて「ご注文は?」も何もないでしょうに。
もしここで私が「今日は生中で」とか言い出したらどうするつもりなのでしょうか。
まあ、もちろんそんな捻くれたことはせずに、ありがたく黒ホッピーを頂くのですけれども。

ここ2日ほどホッピーについて書いています。
決して「酒飲みブログ」ではないのですけれども、ここまで書いたら最後までホッピーについて書くのも筋かな、と思いますので今日も書いてしまいましょう。

ホッピーには基本として「白」「黒」の2種類があります。
簡単に言えば、普通のビールと黒ビールの違い、というところでしょうか。

良くホッピーは「ビールの代用品」と言われますが、個人的にはビールとは似て非なるテイストだと思っています。
割り方にもよるでしょうが、ビールのように「苦味」は強くありません。
「ビールは苦手……」という方も、ぜひ一度チャレンジしてみていただきたいものです。

また、ホッピーには「白」「黒」の他に、ホッピー発売55周年を記念して作られた「55ホッピー」、通称「赤ホッピー」と言われるものもあります。
あまり置いてあるお店は見かけませんし、置いてあったとしても「白」「黒」よりちょっとだけお高めなことが多いです。
私も一度飲んでみたことはありますが、何を飲み食いしても「美味い」と言う幸せな貧乏舌の持ち主である私には、それほど味の違いは感じられませんでした。
「こんなの飲んだことある?」という話のネタには良いかもしれません。

「赤ホッピー」よりもさらにレアな存在として、「生ホッピー」というものもあります。
生ビールと同じようにサーバーを使って注がれるもので、これがレアなのはやはり大きなホッピーの樽と専用のサーバーが必要となるためでしょう。
どのお店も狭いスペースの有効活用に四苦八苦していることが多いですから。

私、こちらも飲んだことはあります。
サーバーから注がれるだけあって、普通にジョッキの中で混ぜるホッピーよりも泡が生ビールのようにきめ細やか。
「とりあえず生ビール」ではなく「とりあえず生ホッピー」でも十分通用すると思います。

ただ、サーバーから注ぐ関係上、すでに焼酎と混ざった状態で店員さんが持ってきてくれる、という点が私にとってマイナスポイント。
ホッピーの良さは、その時の体調や気分によって、お客が自由自在に濃さを調整できるところにある、と私は考えています。
自分の手元で調合する楽しみ、それが私がホッピーを愛する理由の半分くらいを占めていますので。

しかし、私がホッピーを飲み始めてからもう20年近く。
当時は小汚い焼き鳥屋で、金のないオヤジが少しでも安く酔うために飲んでいる……なんて印象が強かったですが、最近では若者や女性が楽しんでいる姿も見かけます。
お店によっては、ホッピーを使ったお洒落なカクテルなんてメニューもあるようで。

自分が好きなものを、他の皆さんも楽しんでいる姿というのは見ていて嬉しいものです。
今後も「ホッピー大好きアラフォーオヤジ」として、ホッピーを応援してきたいと思います!

まあ、応援すると言っても、ただただ飲むだけなんですけれどもね。

ホッピーを美味しく飲むための方法

ふらりと街中に出てきたところ、なんか大通りで「よさこい」的な何かが行われていました。
毎年恒例、日本テレビの「24時間テレビ」も放送されているらしいですし、世の中はいよいよ夏の終わりをラストスパートで楽しもうとしているようです。
私のように夏は「なんか暑いな」、冬は「なんか寒いな」程度にしか感じず、その日暮らしをしている人間にはあまり関係のない話ですが。

さて、昨日に引き続きホッピーの話でも。
ホッピーを製造しているのは、ホッピービバレッジ株式会社。
こちらの公式ホームページでは「ホッピーの美味しい飲み方」を紹介しています。

基本的に知られているのが「3冷」という飲み方。
「ホッピー」「焼酎」「ジョッキ」の3つを良く冷やすことから、そう呼ばれています。
凍らせたジョッキに焼酎を注ぎ、そこにホッピーの瓶を逆さまにするようにして勢いよくホッピーを注ぎ込みます!
この注ぎ込む勢いで焼酎とホッピーを混ぜ合わせるのがコツ。
そして氷は、溶けて味も炭酸も薄めてしまうので、基本的に入れません。

……これが基本とされていますが、実際に居酒屋でこの飲み方を忠実に守っているところは、ほぼお目にかかりません。
ホッピーも焼酎もジョッキもキンキンに冷やすとなると、その分冷蔵庫・冷凍庫のスペースを確保しなければならないわけでして。
なかなかそのスペースを確保することは、よほどホッピーにこだわり、広いスペースのあるお店でないと簡単ではない、ということです。

ちなみに私は氷を入れる派。
氷が溶けることでアルコール度数を緩和してくれて、酔い過ぎを防いでくれるためです。
カットレモンは店が入れてくれればそのままにしますし、入れなければ要求することもありません。
単純に「お店のやり方に合わせる」というだけのことですね。

そうは言っても時々、いかにも「今、食器洗浄機から出して参りました!」みたいな生温いジョッキで出してくるお店はちょっとな……と思います。
せめて多少は冷えたジョッキで出してほしいものですね。
「お客に、美味しく飲んでもらおう」という気持ち、そして何より、お酒に対する愛情が足りていません。
文句を言ったりはしませんが。

そして、ホッピーの「中」、焼酎として定番なのが、株式会社宮崎本店の「亀甲宮焼酎」、通称「キンミヤ焼酎」です。
このキンミヤ焼酎をシャーベット状になるまで冷やした状態でホッピーを飲むのが「シャリキン」という飲み方。

これは酔います。
冷たくてスイスイッと口に運んでしまうのですが、油断するとよほど酒に強い人でないとベロベロになります。
私は普段、「外」(ホッピー)1本で「中」3杯なのですが、シャリキンの時は「外」2本で「中」3杯にしています。
このくらいにして、普段の酔い具合、良い具合になれます。

ちなみに、ホッピーには「ホッピー専用ジョッキ」もしくは「タンブラー」があることはご存じでしょうか。
こちらには、北斗七星の形で「★」マークが入っているのですが、この一番下の星まで25度の焼酎を入れると5%、下から二番目までだと7%のアルコール度数になるとのこと。

私は以前、良く行く焼き鳥屋のご主人から「家で飲む時に使うと良いよ」とこのジョッキを1つ、頂きました。
頂いたのは良いのですが、結局家ではホッピーを飲まないため、冷凍庫の中でずーっと凍らせたままになっています。

ビールとか飲む時に使ってもいいかな、とも思うのですが、せっかくのホッピー専用ジョッキ。
違う飲み物を注ぐと「俺はこんなものを飲ませるために生まれてきたわけじゃない!」と怒られそうな気もして……。
でも使わない、というのもかわいそうなので、今度はその焼き鳥屋からキンミヤの小瓶とホッピーを持ち帰りさせてもらって家でも使ってみようかと思っています。
次に行く時に、瓶は洗って返せばリサイクル的にも完璧でしょうし。

突発的な思い付きですが、なかなか良いアイデアのように感じます。
今度、お店に相談してみることにしましょう。

ホッピーのために夏は存在するのではないか

まだまだ暑い日が続いています。
暑い日は、冷たい飲み物ではなく熱い飲み物を飲んだ方が体に良い……という話を聞いたことがあります。
でも、体に良いとか悪いとか関係なく、やっぱり暑い日は冷たい飲み物を飲みたくなってしまうんです。

というわけで、毎晩居酒屋で黒ホッピーを飲んでしまうのも、仕方がないことなんです。
暑い日が続くのが悪いんです。

ホッピーを知らない人のために簡単に説明すると、ホッピーは甲類焼酎に混ぜて飲む、ビールテイストの飲み物です。
ホッピー自体はアルコール度数0.8%、低カロリー、低糖質、プリン体ゼロ。
「中」と呼ばれる焼酎の入ったジョッキに、「外」と呼ばれるホッピーをお客自身が入れて混ぜる、という店が多いです。
つまり、焼酎とホッピーの割合は飲む人の好み次第。
私は基本的に、ホッピー一本で中3杯くらいの割合で飲みますが、その気になれば「外」一本で「中」6杯とか10杯とかいうこともやれなくはありません。
ただしその場合、ほとんど焼酎ストレートで飲んでいるようなものになってしまいますが。

こんな話を人にすると、「わざわざ居酒屋で飲む必要があるの?」と聞かれることがあります。
確かに、スーパーや酒屋などでホッピーを売っていることもあるのですが、必ず置いてあるか、と言うとそうではありません。
もし幸運にも発見できたとしても、その瓶は居酒屋で出てくる瓶とは違うのです。

居酒屋で出てくるホッピーは、内容量360ml、瓶のずんぐりむっくりとしたキュートさと、瓶に直接商品名がプリントされているという潔さを感じさせてくれます。
「さあ、飲みなさい。私を飲んで酔っ払いなさい」というシンプルなホッピーの声が聞こえてくるのです。
手のひらにしっとりと吸い付くような瓶の握り心地、そしてジョッキに入った焼酎の中に注ぎ込むときの柔らかい鼓動のような振動。
それらが居酒屋の酔客たちのざわめき、威勢の良い店員さんの掛け声などと混ざり合って、最高の「酒飲み時間」を作り上げるのです。

それに対して、スーパーなどで売っているホッピーの瓶は、内容量330ml、なんとなく身長が高くてシュッとした印象を受けます。
商品名も直接プリントではなく、ちょっとおしゃれなデザインの腰巻紙を、粋に着こなしております。
なんだかこちらも、「では飲ませていただきます」という気持ちになってしまうのです。
居酒屋のように、なんとなく飲み進めて、中身の焼酎をお替わりするたびにちょっとずつ濃くして酔っ払う……なんて、雑な飲み方をしてはいけないような気持ちです。

まあ、居酒屋用も小売り用も中身は完全に同じなので、これは完全に私の思い込みなのですが。
でもやっぱり、ホッピーを飲むなら居酒屋。
これだけは私にとって譲れないところです。

無駄なこだわり、と笑われるかもしれませんが、お酒は酔っ払えば良い、というものではありません。
自分の好きな状況で、自分の好きな食べ物をつまみ、自分の好きなお酒を飲む、というシチュエーションで気持ちよく酔うのが一番。
そう思うからこそ、私は今夜も居酒屋のカウンターに座ってしまうのです。

カフェオーレの「穴」、復活したのはいいけれど

江崎グリコの「マイルドカフェオーレ」、私も昔から愛飲しております。
毎日飲む、というほどではないですが、時々思い出したように飲みたい欲求に駆られるのです。
あの甘さが、疲れている時にちょうど良いのだと思います。

そんな愛すべき江崎グリコの「マイルドカフェオーレ」。
500ml入り紙パックにはストローが付いていて、それを紙パック上部の中央に設置されていた「穴」に差し込んで飲む、という形式だったのは、誰もがご存じなはずでしょう。

ストローは三段式で、手で引っ張って伸ばすタイプ。
こういうちょっとしたギミックが、アラフォーオヤジの少年心を刺激してくれました。
力を入れ過ぎて繋ぎ目が抜けてしまい、絶望に沈んだことも一度や二度ではありません。

そんな愛すべきストローと穴が、紙パックから消えたのは今年の春のことでした。
購入した時には気付かず、家に帰っていざ飲もうとした時にストローがないのに気付いた私。
時々接着が甘かったのか、ストローだけが外れてしまっていたこともあったのでそれかな、とも思ったのですが、それにしては接着されていた跡すら見当たりません。

そして、パッケージに「ストローの添付はしておりません」の表記を見つけてしまった時。
さらに、一番の特徴とも言える「ストロー穴」が無くなっているのに気付いた時。
私の中ではさまざまな感情が駆け巡りました。
驚き、悲しみ、寂しさ……。
これは、帰宅した時にテーブルの上に離婚届がそっと置かれているのに気付いてしまった時の感情と似ているのではないでしょうか。
幸いにも私はそのような経験はありませんが。

仕方がないので、普通の紙パックのようにサイドから開いて、そこにストローを突っ込んで飲もうとしたのですが……コンビニ店員さんがストローを入れ忘れていました。
おそらく、店員さんも「マイルドカフェオーレにはストローが付いている」という意識が残っていたに違いありません。
そう考えれば仕方がない話です、店員さんを責めることはできません。

もう、何もかもが残念な気持ちになった私は、直接紙パックからマイルドカフェオーレをラッパ飲みしたのでした。
いつも通り美味しかったのです……でも、何かが違うという思いを拭い去ることができませんでした。

それ以来、どうもマイルドカフェオーレには手が伸びませんでした。
味は好きなのです、しかし「ストローが付いていない……」と思うと、なんだか損した気分になってしまうのです。
まさか、自分がそこまであのストローに依存していたとは、思ってもいませんでした。

しかし、なくなってしまったものは仕方がありません。
大人の余裕でようやくそう割り切れるようになり、心の傷も癒されてきたと思われるこの時期になって、全国のマイルドカフェオーレファンを震撼させる情報が飛び込んできたのです。

「マイルドカフェオーレの穴、復活」

朗報であるはずです。
喜ぶべき知らせであるはずです。
しかし、そこには大事なものが失われたままでした。

そう、ストローは、あの愛すべき三段式ストローは、戻ってくることはなかったのです……。

正直、穴だけ復活してくれても……という気持ちです。
「穴が復活したなら、そこにストローを刺せばいいじゃない」と思われるかもしれません。
しかし、この「穴」にジャストフィットするストローでなければ、意味がありません。

以前添付されていたストローは、穴にピッタリとはまってくれました。
わずかな隙間も見逃さない、というストローの密着感は、カフェオーレとそれを飲む人間を優しい一体感をもって包み込んでくれたのです。
もし穴とストローの間に隙間があれば、余計な空気がカフェオーレと飲む人間の蜜月関係を阻害してしまうことでしょう。

三段式ストローのない穴の復活など、中途半端としか言いようがありません。
とは言っても、ストローと穴が廃止されたのには「原材料の高騰による経費の削減」という、あまりにも抗いようのない理由があります。
たしかに、一つ一つの紙パックにストローを付けるのは経費もかかることでしょう。

個人的には、内容量を多少減らしても構わないからストローを復活させてほしいと考えています。
あの三段式ストローとストロー穴という個性、それがあるから、幾多の紙パック飲料が置かれたコンビニの棚の中でもマイルドカフェオーレは輝きを保っていたのです。

せっかく長い間持ち続けていた個性を捨て、凡百の飲み物となってしまっていたマイルドカフェオーレ
そんなマイルドカフェオーレが再び輝くには、「穴」の復活に続けて「三段式ストロー」の復活にある、と私は全力で提言するものであります。