zatubunsya’s blog

アラフォーオヤジが何か考えたことを考えたままに書き連ねさせていただいております。

京アニ犠牲者の氏名公表はマスコミの断末魔である

京都アニメーション放火事件の被害者の実名が公表されました。
京都アニメーション側、被害者遺族側の了承を得ていない状態の発表であり、世論的にも「了承を得ていない以上、公表するのは適正ではない」という意見が大多数を占める中の公表です。

まず、被害者の実名情報をマスコミに提供した京都府警は、提供の理由についてこう述べています。
「社会的な関心が高く、事件の重大性や公益性などからも情報提供をすることがよいと判断した」
「取材や報道にあたっては、遺族の心情に配慮してほしい」
(NHKニュースより引用)

警察は「情報提供をするけれど、それを公表するかはマスコミ次第」という態度を取ったと言えるでしょう。
実名公表についての責任を負いたくない、丸投げの姿勢です。

一方、丸投げされたマスコミの側は、ほとんどが実名報道に踏み出しました。
その理由(という名前の言い訳)を各社ごとに1つ1つ挙げることはしませんが、総合するとこのような意見になります。

まず1つめ。
「事件の重大性、社会的な関心性の高さから、実名報道をする方がよい」

2つめ。
「事件・事故の内容に問わず、犠牲者名は原則として実名報道することとしている」

3つめ。
「事件の真相を伝えるためには、実名報道が必要不可欠である」

大きく分けてこの3つとなります。

1つめの理由については、京都府警の発言を踏襲したものです。
責任を丸投げした警察と同じ、責任回避のための理由、と言えるでしょう。

2つめの理由については、頷ける部分もあります。
確かに、過去の事件・事故などは被害者の実名が公表されることがほとんどです。
しかし「原則として」という言葉がしめす通り、必ず実名報道を行うわけではありません。

3つめの理由。
これは論外に近いでしょう。
被害者の実名を報道しなければ事件の真相が伝わらない、ということは決してありません。

このように、マスコミ側の「理由」は世論を納得させるに至っている、とは到底思えないものです。
それでは、なぜ世論の批判を浴びることが確定していながら、マスコミ各社は実名報道に踏み込んだのでしょうか。
それはマスコミ側に「世論によって自分たちの報道が左右されることがあってはならない」という意思があるからだと考えられます。

マスコミ側が一般大衆を下に見ている、と言いたいわけではありません。
情報公開の平等性、公益性を保つためには、世論によるケースバイケースではなく、原則として被害者の実名を公表する、という態度を明確にしたかったのでしょう。
つまり、今後も実名報道を行うために「京アニ事件に限り実名報道をしなかった」という前例を作ることを避けたかったのです。

ただ、私はそれ以上に、マスコミが「実名公表をしたくなくても、せざるを得なかった」という、追い詰められた状況を感じるのです。

現代社会では、情報収集の手段としてマスコミ以上にネット上の情報が力を持っています。
誤情報を流すことが絶対NGのマスコミに対し、ネットでは未確認情報でもどんどん流されることが多いと言えます。
それは、「常磐自動車道あおり運転暴行事件」の加害者女性デマの際に痛感しました。
マスコミがこのデマ事件について報道を始めたのは、情報がデマであると確定し、すでにネット上ではこのニュースが収束しつつあった段階でした。
「誤情報を流せない」マスコミは、常にネット情報の後追いを報道する立場に置かれているのです。

マスコミが情報の即時性、スクープ性でネットに遅れを取っている以上、確定した実名報道すらできないのでは、完全にマスコミは報道としての存在価値がなくなってしまいます。
自分たちの存在意義を少しでもしめすために、テレビや新聞といったマスコミは世論の批判を受けても実名報道をせざるを得ないのです。

世の中にはネットを見ない、見られないという人もいますから、まだマスコミにも価値はある、と言えるかもしれません。
しかし、今後は一般の人間がますますネット情報を重視する比率が高くなっていくことは確実です。
それに対抗するマスコミの手段としては「情報の正確さ」を重視するしかないのでしょう。

問題なのは、そのマスコミの「情報の正確さ」すら、すでに疑われているということです。
ネット上の情報に対抗する手段は、すでにマスコミから失われているのです。

京アニ事件犠牲者の実名公表は、報道機関としての価値を失いつつあるマスコミの苦し紛れの最終手段。
私が「京アニ犠牲者氏名公表はマスコミの断末魔である」というタイトルで今回のブログを書いたのは、それがすべての理由であります。