「自分らしさ」について結論が出ないまま文章を書いていたら、やはり結論は出なかった
夜眠れない時、布団の中でグダグダと何かを考えていることがあります。
昨夜は「自分らしさって何だろう」ということでした。
「自分らしく生きる」と自分で言うこともあれば、他人から「○○さんらしい」と評価されることもあります。
しかし、これが両方同じイメージかと言うと、決してそうではないでしょう。
自分で思う「自分らしさ」と、他人から思われる「その人らしさ」、どちらも同じ人間を評価する言葉であるのに、完全にイメージとして重なることはありません。
それがなんとなく気持ち悪いな、とずっと布団の中で考えていました。
理論立てて考えていたわけでもなく、なんだかもやもやとした、掴みどころのないイメージを頭の中でこねくり回していた、という感じなので、うまく説明できていないかもしれませんが。
そもそも、「自分らしく」だけで生きるということが可能なのでしょうか。
人間社会の中で生きている以上、誰にでも社会の中での役割が割り振られます。
働いていれば「会社員らしく」「上司らしく」「部下らしく」「発注先らしく」「受注先らしく」……他にもいろいろ。
家庭では「父親らしく」「母親らしく」「夫らしく」「妻らしく」「子供らしく」……。
友人関係や知人関係でも、そういった一種の「役割分担」の中で自分の行動を決定していく、ということが多いのではないでしょうか。
とすると、真の意味で「自分らしさ」を最優先して行動する機会、というものは、実際にはそれほど多くはないのかもしれません。
「自分は自分、他人は他人」と割り切ってしまえば、「自分らしく」行動することはできるのかもしれませんが、自分の行動というものは、少なからず他人へ影響を与えるものです。
そう考えると、「自分らしく」というものは自分勝手の我儘、になってしまうのではないでしょうか。
風が吹けば、桶屋が儲かるのです。
ブラジルで蝶が羽ばたけば、テキサスで竜巻が起こるかもしれないのです。
そもそも、「自分らしさ」というものは、自分で決めることができるのでしょうか。
自分で考えていると思っていても、それは他人からの影響を受けたものであるかもしれません。
視聴したテレビ番組、読んだ書物、他人から聞いた意見……。
それらのものに影響されて「自分」というものは形成されています。
昨日までの考え方とは、180度違う考え方に目覚める、ということもあるでしょう。
「自分」とは、曖昧模糊としていて、すぐに形を変えるものでもあるのです。
ならば、「これが自分である」と決めつけてしまえば良いのでしょうか。
おそらく、決めつけた方が楽ではあると思います。
さまざまな局面において、行動や思考のパターンを決めておけば、その都度悩まずに済むからです。
しかし、他人の意見をき入れない、他人の都合を考えないということでもあり、柔軟性や寛容性、幅広さを失うということでもあります。
そう考えると、あまり「自分らしさ」というものを決めつけるというのもどうなのだろう、と思えてしまうのです。
ならば結局、「自分らしさ」とは何なのだろうか……。
と、思考はいつまで経っても堂々巡りです。
結論が出ないまま、ブログに思うまま書き連ねてみたのですが、やはりはっきりとした答えには辿り着けませんでした。
文章にまとめてみれば、何かが見えてくるかもしれない……と思ったのですが、どうやら無理だったようです。
「自分らしく」という言葉は、非常に耳に心地よく響く言葉です。
「自分らしく生きる」を目標として、日々を努力し、生きているという人も数多くいることでしょう。
その方たちは、確固とした「自分らしさ」というものを見つけられているのでしょうか。
一度、聞いてみたいものです。
嫌味でもなんでもない、純粋な疑問として。
「貴方の言う自分らしさとは、いったいどのようなものですか?」と。