zatubunsya’s blog

アラフォーオヤジが何か考えたことを考えたままに書き連ねさせていただいております。

ファッションの話~「自分の服」に対する圧倒的興味の薄さ~

9月に入り、そろそろ秋用、冬用の衣服を準備しようかと考えています。
気温的にはまだ気が早いような気もします。
しかし、いざ必要な時になって「ナガソデ……洗ッテナイ……シワクチャ……」と哀しきモンスターのような顔で絶望するのは、去年までで終わりにしたいのです。
まあ、しわくちゃでもそこまで気にせず着るタイプの人間ではあるのですが。

「しわくちゃでも……」どころか、そもそも私は自分が着る服に対してまったく興味がない人間です。
サイズが合っていて、暑さ寒さがしのげて、大事な部分が隠れれば問題ない、と考えています。
多分、ファッションに対する興味を母親の胎内に残したまま生まれてきてしまったのでしょう。
もしくはリンゴを食べた直後のアダムとイブレベルの感性の持ち主。

いや、さすがに海外のファッションショーで時折見かける、奇抜すぎるファッションは遠慮したいですが。
「3000年後の未来から来ました」みたいなやつとか。
レディー・ガガの「生肉ドレス」とか(懐かしすぎる話題)。

あ、他人が奇抜な恰好をしているのは別に構いません。
本人が着たくて着ているんでしょうし、ファッションで個性を出すというのも大事ですから。
それをどうこう言うほど野暮ではないつもりです。

時々、「母親が買ってきた服を着ている」みたいなネタが笑い話として語られることがあります。
しかし私は、もし母親が服を買ってきてくれたら、それを喜んで着るでしょう。
着る服に興味がない人間にとって、服を買うというのは非常に面倒くさい、一大事業なのです。
そんなことをしている時間があるなら、正直寝ていたいのです。

一応言っておきますが、私はファッションに興味がある方を批判したいわけではないのです。
私はよく古本市に行って本を買い込んできますが、本に興味がない人は「なんでそんなことを?」と思うでしょう。
「古本市に行く時間があるなら、正直寝ていたい」と。
それと同じことです。
人にはそれぞれ、興味があることとないことがある、ということです。

こんなブログを書いているのも、つい最近「今度服を買いに行こう」というお誘いを受けたためです。
それ自体は構いません。
「こいつ、いつも同じ服を着てるな」という心配、親切心からのお誘いなのでしょう。
それはありがたいことなんです。

でも、「どうだ、嬉しいだろうありがたいだろう」みたいなドヤ顔をされたのがちょっとイラッとしただけで。
本人に直接文句は言えないので、ブログで吐き出してみました。

こんな私ですが、他の方のブログやニュースでファッションの記事を読むのは好きなのです。
「こんなのが流行っているのか」
「面白い服があるんだな」
という感じで、純粋に楽しむことができます。

つまり、私は「自分が着る服」には興味はありませんが、「知識としてのファッション」には興味があるのです。
どうにも極端、頭でっかちな感じが否めませんが、自分はこういう人間だ、と考えるしかありません。

それに今後、私がファッションに興味を持ち始める可能性もゼロではありませんしね。
ある日突然、ブログにファッションの記事を書きだしたら「ああ、この人は何かに目覚めたんだな」と、暖かい目で見守っていただければ幸いです。

「ねばならない」という考え方は長続きしない

8月7日から始めたこのブログも、無事8月いっぱいを乗り越えることができました。
一応の目標としていた「1日1回更新」もなんとかクリア。
読者登録も100名を超え、トータルアクセス数も2000近くと、出発としては上々の結果と言えます。

今まで、mixiの日記や大昔にプレイしていたブラウザゲームの日記コーナーなどで多少書いていた経験はありますが、本格的にブログを書くのはこれが初めて。
右も左もわからない初心者なので、いろいろと不安な点はありましたが、考え過ぎだったのかもしれません。
「案ずるより産むが易し」という言葉がありますが、まさにそれなのでしょう。
今後も気負い過ぎず、この調子で継続できたらと思います。

同時に始めたTwitterに関しては、ほぼ読む専門となってしまっていますが。
まあ、それはそれで新しいブログを見つけたり、他の方のつぶやきを読むことで勉強になったりしていますので、使い方としては間違ってはいないのでしょう。
私は短文でつぶやくよりもブログに無制限にだらだらと書くことの方が向いているようですので。
どちらも充実させるより、ツールとして使い分けした方が気が楽です。

他の方のブログやツイートを読んでいて最近目に付くのが「ブログを継続させるための方法」系のネタです。
「1日1回更新する」
「記事を充実させるため、1記事2000文字程度
「まずは100記事を目指す」
「ネタの探し方」
こういった記事ですね。

この系統の記事が多く書かれるということは、皆さん意外とブログを続けるのに苦労しているのかな、と思うこともあります。
ブログの収益化を目指している方向けに書かれているようなので、私のような「ただ何か書きたいだけ」な人間にとっては当てはまらない部分もあるのでしょう。
それでも読んでいて参考になります。

思うのは、あまりブログを書くことを「義務化」してしまうと、余計に継続が難しくなってしまうのではないか、ということです。
私の場合は好き勝手に、その時書きたいと思ったことを書き流しているだけですので、正直言って気楽です。

ですが、ですね。
先ほどの「ブログを継続させるための方法」を、こう考えてしまったらどうでしょう。

「1日1回更新しなければならない」
「1記事2000文字以上書かなければならない」
「100記事書かなけれなならない」

考えただけでうんざりしてきます。
追い詰められ具合が半端じゃありません。
まず続けることを目標とするのであれば、「ねばならない」という考え方は放棄してしまった方が良いと思うのです。
「自分が楽しめる」こと、それがブログの一番の継続のポイントなのです。

もちろん、「ブログの収益化」「ブログだけで食べていく」が目標の方にとっては、私の言っていることは生温い戯言でしかないでしょう。
お金を発生させるのであれば、それは仕事となります。
仕事である以上、「ねばならない」という考え方は必要不可欠な苦労となるでしょう。
なんの苦労もせず、気楽にやってお金がもらえる、などということはありません。
そんなことが可能でしたら、私だってとうの昔に手を出しています。

あれもやりたい、これもやりたい、ついついいろいろな方面に手を出してしまいたくなってしまうのは確かです。
しかし、あれもこれも、すべてを充実させるのは簡単なことではありません。
まずは自分がブログに対してどのように取り組みたいのか。
継続させることを目指すのか、収益化を目指すのか。
その辺りのスタンスを明確にして、無理はしないようにするのが一番だと思います。

……と、ブログ初心者のくせに偉そうなことを書いてしまいました。
「そんなこと、言われなくても最初からわかっているよ!」という方もいらっしゃるでしょう。
まあ、今日の記事は半ば、自分に向けて書いているところがありますので。
お目汚しだと思って、勘弁していただければと思います。

楽しきかな気楽な飲み会~黒ホッピーとバイス~

昨日は以前勤めていた会社の友人たちと飲み会でした。
以前勤めていた、と言っても、いまだにそこからちょっとしたお仕事を受けていたりするのですが。
ですがその辺は関係なく、あくまでも友人としての飲み会。
気を遣う必要もなく、遣われる必要もなく。
上司的な人間もいないという、好き勝手に振る舞える一番楽しいパターンの飲み会でした。

木曜の夜だから、そこまで混んではいないだろう……と予約はしないでお店に行ったのですが、予想に反して結構な混み具合。
こりゃダメかな……と思ったのですが、店員さんが「もう少し待っていただければ、テーブルのお客さんがお帰りになりますよ」と言ってくれたのでしばらく外で待つことにしました。

こんな時、気楽な間柄の人間しかいないというのは良いものです。
上司とかがいたら「待たせるわけにはいかない!」と急いで他のお店を探さなければ、となってしまいますから。
そのお店、会社の近くなんですが、そこに行くために時々電車で片道1時間かけて通うくらい、私のお気に入りなのです。
安くて美味い、そして黒ホッピーも置いてあります。

しばらく待って無事テーブル席に陣取り、乾杯。
私は当然、黒ホッピー。

「しかし木曜なのに、なんでこんなに混んでるのかね」
「肉の日(29日)だからじゃない?」
「でもここ、肉より海鮮がメインだけど……」
「……海鮮だって魚の肉でしょ」
なるほど、道理……なのでしょうか。

会話の内容は、メンバー的に会社のことが中心になるのは仕方がありません。
まだ関係があるとは言え、私は一応外部の人間。
あまりに深い内容になりそうな時はストップをかけておきました。
こういう部分は気を付けないと、のちのち面倒なことに巻き込まれるのはごめんです。

しばらくお酒と料理、会話を楽しんでいると、ちょうど3杯飲み終わり、黒ホッピーが空になりました。
次も黒ホッピーにするか、別のものにするか……と考えた時に目に入った張り紙が。

バイス、始めました」

これはこれは、また私好みのものを……ということで黒ホッピーからバイスにチェンジ。

説明しますと、「バイス」とは株式会社コダマ飲料が発売している焼酎の割り物です。
飲み方としてはホッピーと同じように、バイスの瓶と「中」焼酎が出されて客が好みで割るパターンとあらかじめお店が混ぜて「バイスサワー」として出してくれるパターンがあります。
このお店は当然、瓶と中焼酎パターン。

味はちょっと甘めで、梅干しの「シソ」の風味がします。
色は薄いピンク色でおしゃれな感じ。
カクテルグラスにでも入れれば、バーのカウンターで飲んでいても違和感がないでしょう。
さっぱりしているので、私はよく「酔い覚まし」のつもりで頼みます。
いや、バイスだって焼酎を割るものですので、れっきとしたお酒ではあるんですがね。

私が子供の頃、祖母がよく畑で栽培したシソの葉を煮出し、砂糖を入れた「シソジュース」を飲ませてくれました。
その味を思い出す、私にとってバイスは「懐かしい味」でもあるんです。

そんなことを話しながらのんびり3時間近く。
さんざん飲み食いした後にお会計を頼むと……思っていたより少々安いのです。

「大丈夫? 間違ってないですか?」
店長さんに聞いてみると「最初にお待たせしちゃったんで、ちょっとだけですがサービスです!」という嬉しい一言が。

お店と良い関係を築いておくと、こういう嬉しいことがあるんですよね。
よく通う、と言っても、入って「こんばんは」と声をかけて、カウンターに座ってずっと本を読みながら飲んでいるような客なので、頻繁におしゃべりするような仲良し関係でもないんですが。
少なくとも嫌われている客ではないようで、安心です。

お店のご厚意をありがたく受け、「またここで飲もう!」と約束して解散。
気楽で、ちょっと懐かしく、お店の親切にも触れられるという、良いことづくめの楽しい飲み会でした。

「立川フロム古書市」訪問記

先日、「渋谷大古本市」を訪れてから2週間あまり。
あの日はめちゃくちゃ暑かったな……と、もうすでにちょっと懐かしく思い出されます。
最近は多少涼しくもなり、特に夜などは過ごしやすくなってきていますね。

考えてみればもう8月も終わり。
このまま秋になり、冬になり、季節は巡り巡って年が変わり、そして私はまた1つ無駄に年齢を重ねるのでしょう。
突然のマイナス思考。

それはともかくとして。
昨日は私、東京都立川市立川駅のすぐ近く「フロム中武」ビルで行われている「立川フロム古書市」に行ってきました。
またか、と思われるかもしれませんが、行ける範囲で古本市が開催されているのなら、行かないわけにはいかないのです。
それが世界の決まりなのです(そんな決まりはありません)。

「立川フロム古書市」は、「渋谷大古本市」と比べると小規模な古本市です。
広さ的には半分程度でしょうか。
でも、古本市は広さではありませんから。
どんな本が置かれているか、ですから。

というわけで、1時間ほどかけてじっくりと見て回りました。
思ったよりも短時間で済んだのは、本以外にCDやVHSのコーナーなどもあったからです。
それはそれで興味深かったんですがね……。
光GENJIのミュージックビデオなんて、久しぶりに見ましたよ。

いや、ウチにも昔の映画とか、結構VHSテープが転がっているんですけどね。
もうデッキがなくて、視聴する手段もないんですけど、今後絶対にDVD化しないであろう変なB級映画とかも多いんで、捨てるに捨てきれないんですよ。
だからってこのままにしておいても仕方がないんで、いつかなんとかしたいんですけどね……。

話が逸れました。
私が今回、購入した古本はこちら。

諸葛孔明』 著・植村清二 発行・中央公論社(昭和63年1月15日 1刷)
『自慰 抑圧と恐怖の精神史』 著・ジャン・スタンジェ/アンヌ・ファン・ネック 訳・稲松三千野 発行・原書房(2001年4月14日 第1刷)
朝日新聞100年の記事に見る 7 スポーツ人物誌』 発行・朝日新聞社(1979年8月1日)
『酒場の文化史ードリンカーたちの華麗な足跡ー』 著・海野弘 発行・サントリー株式会社(1983年4月5日 初版)
闇市』 編・マイク・モラスキー 発行・皓星社(2015年9月10日)

以上5冊、小計1900円でした。

相撲で絞った渋谷の時とは違い、見事にジャンルがバラバラです。
まあ、ただ単に読みたいものを手に取ったらこうなっただけなんですけども。
でも、思ったよりもトータルで安かったので、良しとするべきでしょう。

……と安心したのも束の間。
会場のビルを出て目の前に、かの有名な「BOOKOFF」があることに気付きました。
気付いてしまった以上は、行かないわけにはいかないのです。
それが世界の決まりなのです(そんな決まりはありません)。

結局、追加で数千円が飛んでいきました。
BOOKOFFは久々に行くと、ついついいろいろな本に手を出してしまいますね。
でも後悔はしていません。
後悔をするには、古本屋巡りは楽しすぎるのです。

まあ、買ったはいいけど読みきれない本が居住スペースを侵食しつつあることには、ちょっとだけ後悔していますが。
でも本好きなら積み上げた本の隙間で生活するなんて、当たり前のことですよね?

京アニ犠牲者の氏名公表はマスコミの断末魔である

京都アニメーション放火事件の被害者の実名が公表されました。
京都アニメーション側、被害者遺族側の了承を得ていない状態の発表であり、世論的にも「了承を得ていない以上、公表するのは適正ではない」という意見が大多数を占める中の公表です。

まず、被害者の実名情報をマスコミに提供した京都府警は、提供の理由についてこう述べています。
「社会的な関心が高く、事件の重大性や公益性などからも情報提供をすることがよいと判断した」
「取材や報道にあたっては、遺族の心情に配慮してほしい」
(NHKニュースより引用)

警察は「情報提供をするけれど、それを公表するかはマスコミ次第」という態度を取ったと言えるでしょう。
実名公表についての責任を負いたくない、丸投げの姿勢です。

一方、丸投げされたマスコミの側は、ほとんどが実名報道に踏み出しました。
その理由(という名前の言い訳)を各社ごとに1つ1つ挙げることはしませんが、総合するとこのような意見になります。

まず1つめ。
「事件の重大性、社会的な関心性の高さから、実名報道をする方がよい」

2つめ。
「事件・事故の内容に問わず、犠牲者名は原則として実名報道することとしている」

3つめ。
「事件の真相を伝えるためには、実名報道が必要不可欠である」

大きく分けてこの3つとなります。

1つめの理由については、京都府警の発言を踏襲したものです。
責任を丸投げした警察と同じ、責任回避のための理由、と言えるでしょう。

2つめの理由については、頷ける部分もあります。
確かに、過去の事件・事故などは被害者の実名が公表されることがほとんどです。
しかし「原則として」という言葉がしめす通り、必ず実名報道を行うわけではありません。

3つめの理由。
これは論外に近いでしょう。
被害者の実名を報道しなければ事件の真相が伝わらない、ということは決してありません。

このように、マスコミ側の「理由」は世論を納得させるに至っている、とは到底思えないものです。
それでは、なぜ世論の批判を浴びることが確定していながら、マスコミ各社は実名報道に踏み込んだのでしょうか。
それはマスコミ側に「世論によって自分たちの報道が左右されることがあってはならない」という意思があるからだと考えられます。

マスコミ側が一般大衆を下に見ている、と言いたいわけではありません。
情報公開の平等性、公益性を保つためには、世論によるケースバイケースではなく、原則として被害者の実名を公表する、という態度を明確にしたかったのでしょう。
つまり、今後も実名報道を行うために「京アニ事件に限り実名報道をしなかった」という前例を作ることを避けたかったのです。

ただ、私はそれ以上に、マスコミが「実名公表をしたくなくても、せざるを得なかった」という、追い詰められた状況を感じるのです。

現代社会では、情報収集の手段としてマスコミ以上にネット上の情報が力を持っています。
誤情報を流すことが絶対NGのマスコミに対し、ネットでは未確認情報でもどんどん流されることが多いと言えます。
それは、「常磐自動車道あおり運転暴行事件」の加害者女性デマの際に痛感しました。
マスコミがこのデマ事件について報道を始めたのは、情報がデマであると確定し、すでにネット上ではこのニュースが収束しつつあった段階でした。
「誤情報を流せない」マスコミは、常にネット情報の後追いを報道する立場に置かれているのです。

マスコミが情報の即時性、スクープ性でネットに遅れを取っている以上、確定した実名報道すらできないのでは、完全にマスコミは報道としての存在価値がなくなってしまいます。
自分たちの存在意義を少しでもしめすために、テレビや新聞といったマスコミは世論の批判を受けても実名報道をせざるを得ないのです。

世の中にはネットを見ない、見られないという人もいますから、まだマスコミにも価値はある、と言えるかもしれません。
しかし、今後は一般の人間がますますネット情報を重視する比率が高くなっていくことは確実です。
それに対抗するマスコミの手段としては「情報の正確さ」を重視するしかないのでしょう。

問題なのは、そのマスコミの「情報の正確さ」すら、すでに疑われているということです。
ネット上の情報に対抗する手段は、すでにマスコミから失われているのです。

京アニ事件犠牲者の実名公表は、報道機関としての価値を失いつつあるマスコミの苦し紛れの最終手段。
私が「京アニ犠牲者氏名公表はマスコミの断末魔である」というタイトルで今回のブログを書いたのは、それがすべての理由であります。

親の面倒、見られるか見られないか

昨日、このブログのアクセス数が跳ね上がっておりました。
「なんだなんだ、炎上か」
「ホッピービバレッジのお怒りか。なにか触れてはいけないことに触れてしまったか」
などと一瞬焦りましたが、どうやらそうではなく、はてなブログの「おすすめ記事」に掲載していただいたおかげのようです。

結局、昨日だけで418アクセスもいただいていました。
いや、他の方からすれば大した数字ではないのかもしれませんが、普段20人から30人くらいのアクセスで過ごしていた人間にとっては驚きの数字です。
もちろんこれは一過性のものであって、おすすめ記事から外れればまたいつも通りのアクセス数に戻るのでしょうが。
せっかく初めて訪れていただいた方に「また見に来てもいいかな」と思ってもらえるような記事を今後は書いていけるようになりたい、と改めて思いました。

さて、私がそんな決意を新たにしている一方で、実家の父親から電話がありました。
「老人ホームを探そうと思っている」
「いいんじゃないですか」
そこで、一応私にもどんなところに入るか知っていておいてもらいたいから、今度実家に帰ってきたときにでも何か所か一緒に見学に行こう、という話でした。

一応、両親共に健在でして、多少悪いところはあるけれどもありがたいことに健康状態も良好。
とは言っても、父親が後期高齢者の仲間入りも果たし、いつまで2人で暮らせるかわからないので今のうちに先のことも考えておきたい、とのこと。

正直、自分たちから「老人ホームに入ろうかな」と言い出してくれたことに、安心しています。
私も完全に生活の基盤が東京に置かれているため、もし両親のどちらかが倒れたりしたらどうするか、ということに多少頭を悩ませていましたから。
老人ホームも順番待ち状態で、入ろうと思ってすぐ入れるものでもないという話も聞きますから、まだ健康で動けるうちに入っておく、というのは悪い判断ではないと思います。

お金の問題も出てくるでしょうが、それはそれとして後に考えようかな、と。
なによりも、老人ホームに入って構わないのか、それとも子供に介護してほしいのか、その意思をはっきり聞けただけでもありがたいかな、と思います。
あらかじめそれがわかっていれば、私も両親の意思に合わせた動き方を考えられますので。

昔は親の介護は子供がするのが当たり前、という風潮があったように思います。
老人ホームに入るのは身寄りのない方、子供がいるのに老人ホームに親を入れるのは、姥捨て山に連れていくようなもの……。
20年近く前ですが、田舎の集まりでそんな言葉を聞いたこともありました。
(私の地元が超ド田舎で、老人ホームというものが身近になかった影響もあると思いますが)

今ではそんなイメージもすっかり変わり、専門のスタッフが常駐してくれているような老人ホームに入った方が子供に頼るより良い、という会話が両親の周囲でも交わされているそうです。
離れた場所に住む子供としてもそちらの方が安心ですし、良いことではないかと思います。

もちろん、今だって自宅で親の介護をされている方も多いでしょうし、そういう方のことは本当に尊敬します。
しかし、「介護疲れ」というキーワードや、それによる哀しい事件などを耳にすると、そこは割り切って考えた方が良いのではないか、と思ってしまうのです。

さまざまな事情で老人ホームに入りたくても入れない方がいることは承知していますし、なによりもそういった施設で働く方が過重労働や低賃金で大変な思いをしているということも知っています。
居酒屋で会う「飲み友達」の中に、介護の仕事をしている人も何人かいて、話をよく聞きますので。

でも、実際に介護に携わっている人たちは、なんだかんだ愚痴っぽく言いながらも、「人の役に立てているんだから頑張るしかないよね」と笑顔を見せてくれます。
本当、尊敬します。
照れ臭いので、言葉に出して直接そうは言えないんですが。

先日の参議院選挙で、れいわ新選組から障碍を持つ方が2名、当選されました。
賛否両論ありましたが、これを機会に障碍者介護の問題と共に老人介護が抱える問題も解決に向けて進展してほしいと、心から思います。
介護業界で働く方たちの待遇改善など、ずっと以前から言われていたことなのに、ほとんど改善に向かっていないようですし。

私だってもうアラフォーです。
人間である以上、これからどんどん年を取っていきます。
収入も少なく、貯蓄も心もとない身としては将来のことを心配ばかりしていますが、そうではなく、誰もが年齢を重ねることを楽しんでいけるような社会になってほしいと思います。

ここまで来たら徹底的にホッピーについて書きたいと思った

昨日はいろいろと雑事を片付けた後、ちょっとお久しぶりの居酒屋に飲みに行きました。
「どーも」と店員さんに挨拶しながらカウンターに座ると、即座に運ばれてくるおしぼり……と黒ホッピー。
そして店員さんが一言。
「ご注文は?」

もう持ってきておいて「ご注文は?」も何もないでしょうに。
もしここで私が「今日は生中で」とか言い出したらどうするつもりなのでしょうか。
まあ、もちろんそんな捻くれたことはせずに、ありがたく黒ホッピーを頂くのですけれども。

ここ2日ほどホッピーについて書いています。
決して「酒飲みブログ」ではないのですけれども、ここまで書いたら最後までホッピーについて書くのも筋かな、と思いますので今日も書いてしまいましょう。

ホッピーには基本として「白」「黒」の2種類があります。
簡単に言えば、普通のビールと黒ビールの違い、というところでしょうか。

良くホッピーは「ビールの代用品」と言われますが、個人的にはビールとは似て非なるテイストだと思っています。
割り方にもよるでしょうが、ビールのように「苦味」は強くありません。
「ビールは苦手……」という方も、ぜひ一度チャレンジしてみていただきたいものです。

また、ホッピーには「白」「黒」の他に、ホッピー発売55周年を記念して作られた「55ホッピー」、通称「赤ホッピー」と言われるものもあります。
あまり置いてあるお店は見かけませんし、置いてあったとしても「白」「黒」よりちょっとだけお高めなことが多いです。
私も一度飲んでみたことはありますが、何を飲み食いしても「美味い」と言う幸せな貧乏舌の持ち主である私には、それほど味の違いは感じられませんでした。
「こんなの飲んだことある?」という話のネタには良いかもしれません。

「赤ホッピー」よりもさらにレアな存在として、「生ホッピー」というものもあります。
生ビールと同じようにサーバーを使って注がれるもので、これがレアなのはやはり大きなホッピーの樽と専用のサーバーが必要となるためでしょう。
どのお店も狭いスペースの有効活用に四苦八苦していることが多いですから。

私、こちらも飲んだことはあります。
サーバーから注がれるだけあって、普通にジョッキの中で混ぜるホッピーよりも泡が生ビールのようにきめ細やか。
「とりあえず生ビール」ではなく「とりあえず生ホッピー」でも十分通用すると思います。

ただ、サーバーから注ぐ関係上、すでに焼酎と混ざった状態で店員さんが持ってきてくれる、という点が私にとってマイナスポイント。
ホッピーの良さは、その時の体調や気分によって、お客が自由自在に濃さを調整できるところにある、と私は考えています。
自分の手元で調合する楽しみ、それが私がホッピーを愛する理由の半分くらいを占めていますので。

しかし、私がホッピーを飲み始めてからもう20年近く。
当時は小汚い焼き鳥屋で、金のないオヤジが少しでも安く酔うために飲んでいる……なんて印象が強かったですが、最近では若者や女性が楽しんでいる姿も見かけます。
お店によっては、ホッピーを使ったお洒落なカクテルなんてメニューもあるようで。

自分が好きなものを、他の皆さんも楽しんでいる姿というのは見ていて嬉しいものです。
今後も「ホッピー大好きアラフォーオヤジ」として、ホッピーを応援してきたいと思います!

まあ、応援すると言っても、ただただ飲むだけなんですけれどもね。