ちょっと電子書籍にも挑戦してみようかな、年も明けたし
昨日書いた「電子書籍より紙の本がどうしても好き」の記事ですが。
いろいろとコメントをいただきまして、まずはそのお礼を。
>Sinnさん
老眼……私は今は大丈夫ですが、そろそろ気にする年齢でもあります。
そう考えると、確かに今のうちに電子書籍に慣れておいたほうがいいかもですね。
写真集や画集なんかは電子より紙がいいという気持ち、わかります。
私は古本市で懐かしい絵本とか見掛けると、つい捲ってしまうのですが、絵本なんかも電子より紙のほうが向いている本かもしれませんね。
>えるさん
読む本によって手段を変えるんですね、勉強になります。
確かに、好きな作家さんやジャンルの本は手元に置いておきたいですよね。
……私の場合、好きな作家さんや集めているジャンルが多くて、結局手元から本は減りそうにないですが(苦笑)。
>edwalkさん
電子書籍のバックアップの件、教えていただいてありがとうございます。
最新技術に付いていけていない人間だということが、今更ながら露呈してしまってお恥ずかしい限り……。
でも「クラウドのデータが消失したらどうしよう」とか考えてしまいそうで。
基本的にデータを信用できていない、アナログ人間なんですよねぇ。
いろいろと勉強になりました。
その結果、ちょっと電子書籍に興味が出てきた私がいます。
もしこの記事を書かなかったら、電子書籍に無知なままで、挑戦してみようなんて思いもしなかったことでしょう。
何でもブログに書いてみると、思ってもいなかった方向に人生は進むものですな。
まずは、無料で読める本がたくさんあるらしい「青空文庫」とかで試してみようかな、と思います。
それでどうしても体質に合わなければ、すっぱり諦めることもできますし。
「あれ、意外といいじゃん」ということになるかもしれませんし。
あと、「dマガジン」みたいな雑誌の定額読み放題サービスも気になりました。
昔は週刊誌とか週に3~4冊購入していたんですが、お金もかかるし溜まると捨てるのに困るし……ということで止めていたんですよね。
雑誌って、結構電子書籍向きなんじゃないかな、と思います。
一つ気になるのが、「気になった記事を保存しておけるのか?」という点です。
紙の時は、気になった記事を切り取ってスクラップしていました。
いまだに当時スクラップした切り抜きを引っ張り出してきて読んだりしています。
これがまた大量にあるんですよね……捨てようにも捨てられないんですわ。
電子書籍でこういうスクラップ機能があれば嬉しいんですが、定額読み放題だとちょっと難しそうな感じがしました。
まだちょっと調べただけなので、ちゃんと調べればいい方法が見つかるのかもしれませんが。
そんな感じで電子書籍に興味が湧いてきた私ですが、そもそも私が本を買うのは古本市が中心なんですよね。
昔の本ですと、電子書籍化されていないものも多そうなので、結局紙の本を買う量は減らないかもなぁ、とも思います。
妖怪や怪談の本とか、伝統芸能系の資料本とか、相撲関連、特に力士の自伝とかはどう考えても電子書籍化されていないでしょうし。
しても売れないですからね。
まあ、そこは紙と電子の使い分け、ですよね。
最近はあまり買いませんがコミックとか、本屋で見掛けてちょっと読んでみたい新刊とかは電子書籍で買ってみてもいいかな、と思います。
今年最初の新しいことへの挑戦です。
わくわくしますね、こうやっていつまでもわくわく、楽しみながら人生送れるといいですな。
……なんか〆の言葉が死亡フラグっぽくなってしまった。
「それが彼の最後の言葉であった」とか続きそうな感じ。
電子書籍より紙の本がどうしても好き
「家の中、いたるところに本の山が積み上がっている」
そういう話をすると、必ずのように言われる言葉があります。
「電子書籍にすれば?」
わかってない、わかってないですよ。
そりゃ、電子書籍にすればスペースの問題は解決するでしょう。
でもですね。
家の中にスペースができても、電子書籍では私の「心の中の寂しいスペース」を埋めることはできないのですよ……。
なんか上手いことを言おうとして失敗した感じがします。
ともかくですね、「紙の本が積み上がっている」という、一目で「本がいっぱいある」とわかる状態でないと寂しい、ということです。
例え、何十万冊分ものデータが詰まったデバイスが目の前にあったとしても、どうにも満足はできないのですよ。
見た目でわからないと。
自分の目で直接見たものを見たままの姿で理解したい、というおじいちゃんみたいな考え方ですね。
あと、ただ単に「そんなに大量のデータの入ったデバイスを持ち歩いて、落としたり壊れたりした時のショックが計り知れない」という思いもあります。
「バックアップを取っておけばいい」のかもしれませんが、絶対に私はそんなにこまめにバックアップを取ったりしません。
自信があります。
面倒くさがり屋なので、絶対にやりません。
力強く宣言するなら、もっとマシなことを宣言したいとも思いますが。
その点、紙の本なら滅多な事では失われません。
火事や洪水に遭ったらさすがに無理でしょうが、それはそれ、災害相手ですからまだ「仕方がない」と諦めもつきます。
なんだかんだ言って、データを保管するにはアナログな方法が一番なんですよね。
電子データより紙の本、紙の本より木簡に墨、究極な話をすれば石に直接刻んだ文字がずーっと残るんです。
そんな半永久的に残ってほしい、なんて贅沢は言いませんが、せめて私が息絶えるまでくらいは残っていてほしいんですよね。
それから「読み終わった本なんて保管しておいても読み直さないでしょ?」とかも言われます。
読み直さないんだから、保管しておく必要などないだろう、と。
ところがどっこい、気に入った本はもちろんですが、私は結構な頻度で一度読んだ本を読みなおす人間なんですよね。
いや、逆にこっちが聞きたいんですよ。
「一度読んだだけでその本の中身を全部把握できるんすか?」と。
まあ、私も何度も何度もじっくり読み直すことは少ないですけど。
付箋貼ったところを集中的に読み直したり、パッと流し読みして中身を確認したりとか。
そういうことをするには、パッと手に取ってパラパラ捲れる紙の本の方が便利なわけです。
あと、ちょくちょくお仕事で資料としていろいろな本を使うこともありまして。
そういう時に「確かあの本はこの辺に積んであったはず……」と探しやすいんです。
近いジャンルごとに山が形成されているので、なんとなくイメージで本の場所を把握できているんですよね。
探している最中に「あ、こっちも使えるかな」という本が出てきたりして、便利。
そんなこんなで、電子書籍より紙の本の方が好き、という話でした。
いろいろと理由は書きましたが、やっぱり一番の理由は「紙の本を手で持って、パラパラ捲るのが好き」だからかもしれません。
それがないと、なんか本って味気ないじゃないですか。
感覚としては古いのかもしれませんけど、やっぱりね、そこは譲れないんですよねぇ。
酔っ払っていて急に昔のことを思い出した
今日ぐらいはお酒に関係ないブログを書こうと思ったんですよ。
でも、今現在、すでに、だいぶ飲んで帰ってきちゃったんですよ。
もう私は健康とか諦めました。
飲んでいても、今はそれなりに健康だからきっと大丈夫。
それはともかくとして。
今日飲んでいて、なんか「超常現象」的な話になったんです。
なんか昨日放送していた『ビートたけしの知らないニュース』の『超常現象スペシャル』をみんな見ていたらしくて。
暇すぎるだろ。
いや、私もちょっとだけ見ましたけど。
で、まあカウンターに並んだ数人と店員さんで「UFO」だの「UMA」だのの話をしていたんですけどね。
急に「そう言えば昔、キョンシーっていたよね」という話になったんです。
あー、メチャクチャ懐かしい。
私みたいなアラフォー世代なら、子どもの頃に『霊幻道士』『幽幻道士』は絶対に見ていると思うんですよ。
映画とか、TVドラマとか、いろいろやっていましたからねぇ。
特に『幽幻道士』ね。
テンテンちゃんとか、スイカ頭とか。
しかし「スイカ頭」って、すごいネーミングですよね。
『キテレツ大百科』の「ブタゴリラ」くらいインパクトがあります。
いまだにスイカ頭がダイナマイトでキョンシーに向かって特攻していったラストシーンを忘れられませんよ。
他のストーリーはまったく覚えていないんですけどね。
しかもテンテンちゃんとスイカ頭って、実の兄妹なんですよね。
それも知った時はびっくりしたなぁ……。
で、思い出してちょっと検索してみたところ。
『霊幻道士』って、ちょくちょく続編が制作されていたんですね。
最新作はなんと2018年に公開されているそうです。
メチャクチャ最近じゃないですか……。
なんか、知ってしまうと見たくなりますよね。
第一作目から、シリーズ全部。
いや、家に昔買った映画のVHSのテープが何作品か残っていることは残っているんですけどね。
でも、もうVHSを再生できないんですよね……だいぶ前に壊れてしまって。
いっそのこと、DVDセットとか買った方がいいのかな……。
そう思っていろいろと調べていたら、『少林キョンシー』という作品を発見しました。
やばい……めっちゃ見たい……。
絶対B級映画だと思うけど……だからこそ見たい……。
こうやってどうでもいいことにお金を使って、時間も使ってしまうんですよね……。
楽しい人生ではあるので、それはそれで構わないんですが。
年末年始に飲みまくったので、そろそろ身体からアルコールを抜きたいと思う
飲んで寝て起きて飲んで寝て起きて時々ブログ書いて。
そうやって2019年が終わり、2020年が始まって。
気が付いたら、もう3日ですよ。
早い早い。
このまま油断していたら、本年もまた「あー、この一年も特に何もなかったな」で過ぎてしまうことでしょう。
私も既に人生の後半に差し掛かっているわけですから、いつまでもこのままではいかん、と思うわけです。
一念発起して、何かを残せるような人生を今から目指すか。
それともすべてを諦め、何も残さないことを目標に生きるか。
まあ、アルコール漬けの脳みそで小難しいことを考えても、どうしようもありません。
そもそも、人生なんて何が起こるかわかりませんしね。
頑張っても何も残せないかもしれませんし、特に頑張らなくても何かを残すことになるかもしれません。
頑張った方が何かが残る可能性が高いかなー、くらいに思っておいた方がいいかな、と。
そもそも「頑張る」という言葉が曖昧過ぎて、何を頑張ればいいのかすらわかっていないですし。
「頑張れる人」というのは、自分の目標が、そしてその目標に向かって何をすればいいのか、が明確になっている人のことなのだと思います。
それに対して私の目標は、せいぜい「死ぬまで屋根のある場所に住みたいな」くらいですからね。
働くしかないですわな。
まあそんな感じで、そろそろ日常生活のペースに戻さねばならん、と思いまして。
今日は久しぶりに、まともな朝ご飯を作りました。
炊き立ての白いご飯と、味噌汁と、焼鮭。
お酒で弱った胃腸に染み込んでくる味がしました。
「焼鮭」とタイピングしたら「焼き酒」と変換されてしまって、どうしようかと思いましたが。
どんな酒だ。
私が毎日のように「酒」「酒」と変換しまくっているのが悪いんですけどね。
そう言えば、「鮭の酒びたし」というおつまみがあるらしいですね。
すっごくざっくりとした説明をすると、スライスした鮭の身を乾燥させて、日本酒を振りかけて柔らかくしてから食べるおつまみ、だそうです。
酒を振りかけた鮭をつまみに酒を飲む、という駄洒落みたいなネーミングですね。
残念ながら私は食べたことがありません。
でも、美味しそうなことだけはわかります。
「鮭とば」にお酒を振りかけたら同じような感じになるかな……とか思いますが、大体こういう思い付きは試すとロクな結果にならないものですので、試すことはしません。
いつか食べる機会が訪れることを楽しみにしています。
と、こんな風についつい「酒」のことを書いていたら、まるでそれを察知したかのように飲み屋仲間から新年会のお誘いが届きました。
いつもの焼き鳥屋、今日から営業開始だそうです。
いや、私だって知ってましたけどさ。
今日くらいは飲まないで過ごそうと思って、忘れたフリをしていたんですよ。
でも、誘われてしまったら仕方がないですよね。
「新年会」と言っても、別に特別なことをするわけでもなく、普通に飲むだけでしょうし、その辺は気楽でいいですけど。
いやー、仕方ないなー、飲みたくないけど、誘われちゃったら行かざるを得ないよなー。
人間関係は大事にしないといけないからなー。
そんなわけで、そろそろ開店時間なのでお出掛けの準備に入ります。
明日こそは禁酒する……みたいな目標を立てると、また誘われた時に面倒なので目標は立てません。
あ、「私は目標に縛られない男」みたいな言い方をすればちょっとカッコいいかしら。
うーん、でもそれって「目標を立てても守れないダメ人間」ってことですしねぇ。
冷静に考えてみたら、全然カッコよくなかったです。
ではダメ人間、飲みに行ってまいりますわ。
1月2日は書き初めする日ですってよ、奥さん
皆さん、書き初めはしましたか?
1月2日は風習的に書き初めする日ですからね。
当然、私はしていません。
このブログが今年初のブログだったら、それをもって「書き初め」と言うのでしょうけれど。
残念ながら、昨日の間にブログの書き初め……ブロ初め?は済ませてしまいました。
だから本日のブログは書き初めでもなんでもない、ただのブログです。
まあ、もともと書き初めなんて学校の宿題で出た時以来、一度もやっていませんしね。
しかもその宿題だって、休みが終わる前にパパッと書くのが慣例でしたので、正確な意味での書き初め、1月2日に書いたものではなかったですし。
つまり私にとって、書き初めは縁のない存在ということでしょう。
でも「万が一、今年書き初めを書くとしたら何て書くかな」と想像くらいはしたんです。
パッと思いついた言葉は「平成」でした。
なんででしょうか、自分でも良くわかりません。
過去のことを忘れられない、過去の栄光にすがっている「昔は良かった」パターンでしょうか。
でも私には栄光なんぞありませんし、特に平成に対して良い思い出もないので、この可能性は薄そうです。
多分、ただ単に「未来へ進もう」という意思が薄いのでしょう。
私の中では「平成」でも「令和」でも、どっちでもいいや、という思いもあるのかもしれません。
どっちでもいい結果、より馴染みのある「平成」という言葉がパッと思い浮かんでしまったのではないでしょうか。
なんだかんだ言っても、人生のほとんどを「平成」の人間として過ごしてきましたわけですからね。
私の人生をポッキーで言えば、チョコのかかっている部分が平成、チョコのかかっていない部分が昭和、みたいな比率でしょう。
令和は……なんでしょう、外箱くらいの存在でしょうか。
まあ、こんなものはただの言い訳で。
私と同年代の人間は、同じような時間の過ごし方をしているはずですが、それでも今年の書き初めのお題で「平成」とは言わないでしょう、多分。
ただ単に私が「特に何も考えていませんでした」みたいな生き方をしているせいですよ、うん。
あれ、全然最初「書こう」と思ったことに辿り着かない。
うーん、今から真面目に仕切り直すのも面倒なので、今日はもういいや。
そう思ったので今日のブログタイトルを変えました。
これで誰も違和感を覚えないはず。
本来書こうと思っていた内容は、また気が向いたら書きます。
というわけで、本日のブログは「書き初め」で最後まで書こうと決めたのですが。
その途端に「別に他に書くこともないな」となってしまう不思議。
でもなんかここで止めるのも悔しいので、ボーっと「書き初めに向いた四字熟語」を眺めていました。
「不撓不屈」とか出てきました。
それまで全然有名な言葉ではなかったのに、それで一気に市民権を得た……と思っているのは、私のような相撲好きだけでしょうか。
と言うか、私が阿呆だから知らなかっただけで、私以外の方は全員知っていた可能性すらありますね。
怖い。
書き初めのお題としての感想は、「撓」が書きにくそう、くらいですわ。
この一文字だけ妙に大きくなっちゃって、文字のバランスが悪くなるパターン。
文字のバランスが悪くなると言えば、「一期一会」も意外と難しいですよね。
「一」という、超簡単そうに見えて文字のバランスを取るのが難しい存在が2つも入っている、罠みたいな存在。
調べていたら他にもいろいろ出てきましたが、なんか書いたことのない四字熟語がいっぱいありました。
そして「あれ、自分は書き初めでどんな言葉を書いていたっけ」と思い出そうとしたのですが……全然思い出せませんでした。
多分、お手本を渡されて書いた何の変哲もない四字熟語だったはずですが……。
うーん、本当にまったく思い出せない。
よほど書き初めに興味がなかったのでしょうね。
やっぱり私と書き初めには縁がない、ということのようですわ。
「あけましておめでとう」と言って「喪中なんで」と返されることの面倒臭さ
皆さま、あけましておめでとうございます。
本年度もよろしくお願いいたします。
一応「日本のお正月」的なノルマは済ませておきたいと思います。
いや、宣言通り朝から結構な量、アルコールを摂取してしまいましてね。
酔っ払っているし、ブログの更新もお休みしようかなー、なんてチラッと考えたりもしたのですが。
でもやっぱり、元日から書かないと今年一年あんまり更新しないような気もしましてね。
「一年の計は元旦にあり」とも言いますし、短文でもいいから更新しておこうかな、と考え直しました。
ちゃんとした内容を書こうとしているわけでもあるまいし、酔っ払っていたところで何の問題もありませんわな。
あ、本日のタイトルは、私が昔会社勤めをしている時に、他部署の後輩から言われた一言の経験からです。
「ああ、そうなんだ」と返しましたが。
お前が喪中かどうかなんぞ、知らんがな。
喪中のハガキが来ていたとか、メールでそういう連絡が来ていたとか、それだったらこちらが悪いでしょう。
でも、何の連絡もないのに「喪中なんだから気を遣えよ」みたいなこと言われてもねぇ。
こっちはエスパーじゃないんだよ。
そんなこと言われたら、新年のあいさつを「あけましておめでとう」じゃなくて「喪中ですか?」に変えるしかなくなりますわ。
お互いに喪中かどうかを確認しあって「あけましておめでとう」というシステム。
これなら相手が喪中でも、万が一にも失礼はありません。
おめでたさは半減くらいしている気はしますけど。
こんなこと書いておいてアレなんですけど、そもそも正月って何がおめでたいんでしょうかね?
昔から「あけましておめでとう」と言ってきましたが、よく考えてみればとにかく「正月=めでたい」という方程式だけで、なんで正月がめでたいのか、考えたこともありませんでした。
気になったからには、調べてみないと落ち着きません。
そんなことでチャチャッと調べてみたところ。
「正月には年神様が来るからめでたいのである」
そういう答えが得られました。
所要時間10秒足らず。
ありがとうGoogle先生。
この年神様とは何かと言うと、「家に豊作や幸いをもたらす神様である」と。
玄関の門松は「年神様に来てもらうため」、鏡餅は「年神様にお供えするもの」、しめ縄は「年神様以外の悪神が入ってこないようにするため」というように、何の気なしに見ていた数々の正月アイテムにも意味があったのです。
しかも全部「年神様のため」。
まさに「都民ファースト」ならぬ「年神ファースト」。
まあ、幸せをもたらしてくれる年神様ですから、優先されるのも理解できなくはありませんが。
でも、ならば喪中で正月飾りを飾らない家には、年神様は来てくれないのか?という疑問も生じました。
まあ多分、目立たないようにひっそりと来てくれているのだ、と思いたいです。
もし来てくれないとしたら、人は死ぬわ幸せも来ないわ、でどうにもやってられませんものね。
表立って祝うことはできなくても、ひっそりとやって来て幸せを授けてくれる。
神様にはそのくらいの寛容性があってもいいと思います。
思わぬところで新しいことを勉強させてもらいました。
やっぱり元日からブログ書いてみて良かったです。
「あけましておめでとう」を「喪中なんで」と返すことは「面倒臭い奴だな」という評価が覆ることはありませんけど。
今年もこんな感じで、適当に思ったことをダラダラ書き綴ろうかと思っています。
よろしければお付き合いくださいませ。
今年も終わりますね
2019年、令和元年最後の日ですね。
大晦日だからと言って特別な何かを感じるほど、ちゃんと生きている人間でもないので、普段通りの感じで過ごしていますが。
正月も別に特別なことをするつもりはありませんし。
ああ、でも朝から飲み始めるかな。
昼酒はそこそこ嗜む人間ですが、朝酒はさすがに正月くらいしかやりません。
そういう意味では「特別」な日ですかね。
まあ、大晦日だの正月だのは、なんだかんだ言って毎年必ず来るものですからね。
そこまで特別扱いする必要もないでしょうよ。
一応、一年の区切りとして、存在は重要かもしれませんが。
いや、本当に特にすることがないんですよね。
年賀状の風習も、個人的にはとっくの昔に止めてしまいましたし。
送らないし、送られてきても返さない、という強い意志。
私と同じくフリーランスな後輩と話した時に「私はさすがに取引先くらいには年賀状は送りますけどね」と言われました。
奴はお中元やお歳暮も欠かさないそうです。
私の後輩とは思えないくらい、ちゃんとした人間です。
ちなみに私はどちらも送りません。
まあ、年賀状もお中元もお歳暮も、送らなくても特に支障はないんですよね。
先方の都合で「フリーを誰か切らなくてはならない」となった時に候補に挙がりやすくなる、ということもないでしょうし。
実際、私も昔はフリーの方にお仕事をお願いする立場でいろいろやっていたこともありますが。
年賀状だのお中元だのお歳暮だの、正直気にしたこともありませんでしたわ。
お中元やお歳暮をもらったら、次会った時にお礼を言わなきゃな、くらいの意識はありましたけど。
なんだかんだ言って、仕事の腕なんですよねぇ。
腕がある人は切られにくいし、ない人は切られることもある、というだけで。
こんな言い方をすると「自分には腕がある」と言ってるみたいですが、そんなつもりもありません。
「それなり」の腕はあるとは自負していますが。
まあ、この「それなり」の腕を「腕がある」と言えるまで引き上げる、それを来年の目標にでも設定しておきましょうか。
なんだかんだ言っておいてこんなことを言い出すあたり、やっぱり私も大晦日、正月を特別視しているのかもしれませんね。
そんな感じで皆様、良いお年を。