意見が対立する相手を説得することは難しい、と改めて思った出来事
私は今までブログの中で、「江戸しぐさ」やら「人工台風」やら「血液クレンジング」やら、さまざまなものを否定的に書いてきました。
しかし、それらを「確信を持って」否定できているのか、と問われれば、必ずしもそうではない、と答えざるを得ません。
なぜならば、肯定派否定派含めた他人の書いた文章を読み、自分なりに理由を考え、思考を積み上げた「自分なりの考え」であるためです。
「江戸しぐさ」について書いた際にTwitter上で私に情報をご教授くださった原田実先生のように、徹底的に材料を集め、分析し、確信を持って自分の意見を言えるほどには、情報の積み上げがまだまだ不足している、と考えています。
これらを肯定する方々の文章を読むと、私以上に専門的な知識を持ち、さまざまな情報を調べて分析している方も少なくありません。
読んでいて、思わず説得されそうになることも多々あります。
まあ、それでも総合的に考えておかしいのではないか、と思う部分もあるので、否定的な内容のブログを書いているわけです。
それは「私の意見を自由に述べる、私のブログ」という場だからこそできることであり、もし私のブログ以外の場所にそれらについて書くような機会があるならば、もう少し慎重にならざるを得ないでしょう。
そこが文章を書くことの難しさであり、文章の内容に責任を持つということであります。
「自分がこう思うから」という理由で、何かの真偽を断定するような記事を書くことは「無責任」の誹りを受けても仕方がありません。
少なくとも、読んだ人を納得させるだけの客観的な材料がなければならないでしょう。
こんなことを思ったのは、先日居酒屋の常連さんとの間で「人工台風」の話題になったためです。
私はブログに書いたように人工台風については否定的な考えを持っているのですが、相手は人工台風の存在を信じていました。
別に言い争いになった、というわけではありませんが、少なくとも私が話した内容では相手に「人工台風は存在しないのではないか」と思わせることはできませんでした。
同じく、相手が話した内容も私に「人工台風は存在するのではないか」と思わせることはできませんでした。
「まあ、あるかもしれないし、ないかもしれないよね」程度のあやふやな結論でお茶を濁すことになったわけです。
せっかく議論をするのであれば、ある程度ははっきりとした結論を出したいと思うのです。
「考え方は人それぞれだよね」みたいな感じで終わってしまうのでは、議論そのものの意味がないのではないか、と。
そういう意味で、あやふやな結論に達してしまったのは私の勉強不足だな、と感じてしまったのです。
他人の信じていることを覆すことは難しいことです。
私の態度としても「絶対にないとは断言できない、ひょっとしたらあるかもしれないね」という日本人的なあやふやさと言いますか、どっちつかずの反応だったのも良くなかったかな、と思います。
自分の意見に自信のない人間が言うことに、説得力など生まれるはずはないですから。
もっと自分の意見に自信を持って相手に伝えることができるようになりたいです。
それにはやはり、さまざまな意見を聞き、勉強をして自分の意見を補強していくしかないのでしょう。
話している最中に相手が「マスコミの報道は信用できない、信じられるのはネットの情報だけ」みたいなことを言っていたのですが、それもどうかと思います。
先入観を基準にして物事を判断してしまうのは、正しい判断とは言えないのではないでしょうか。
ただ、私も「〇〇の意見だから正しい」「〇〇の発言だから間違っているのでは」と、先入観から情報を判断してしまう部分がまだ捨てきれません。
そういった思い込みを捨てて情報を客観的に判断する、今後はそれができるようになりたいな、と改めて思った出来事でした。