映画「ニッポンの、みせものやさん」鑑賞記
昨日13日、新宿K’s cinemaにて。
新宿花園神社の酉の市に見世物小屋を見に行った際にチラシを入手して、ぜひとも行かなければならない、と思って行ってきました。
映画自体は2011年には完成しているもののリバイバル上映なのですが、DVD化の予定もないということなので、見られる機会は貴重だ、と言えるでしょう。
花園神社の見世物小屋を興行している「大寅興行社」の、実際の小屋作りから興行の様子、そして撤収するまでの流れを密着取材で撮影している、資料として非常な映像でした。
また、今では縁日でテキ屋をしている元・見世物興行社の方の話や、日本唯一の「オートバイサーカス」などを知ることができたのも非常に面白かったです。
「子供の口減らしに見世物興行社に売る」とか「金持ちの家に生まれた障害者をお金まで付けて見世物小屋に押し付ける」とか、過去に存在したそんな見世物小屋の「負」と言える部分も隠さず収録していることにも好感が持てます。
見世物興行社の方たちにとっては「実際にあった、当たり前のこと」なのかもしれませんが、やっぱり現代の「人権重視」の世界で生きていると、どうしてもねぇ。
だからと言って「なかったこと」にするのが正しい、とはまったく思いません。
「そういう時代もあった」「そういう事実もあった」という記憶を失わないためにもドキュメンタリーというものが存在するわけですからね。
そもそも、この映画の中に移っている「ヘビ娘」という見世物、生きたヘビを食いちぎり、生き血を啜り……という演目は、いまや上演できないのですし。
障害者を見世物にすれば人権団体が、動物を使ったら動物愛護団体がうるさいわけですよ。
確かに「生きたヘビを食い殺し、生き血を啜る」という見世物は「けしからん」と思う人もいるでしょう。
「とんでもない、気持ち悪い」と思う人も。
でも、そういう「けしからん、とんでもないもの」を見たいという気持ちが人間に備わっているという事実も存在するわけですよね。
そうでなければ、かつて日本に何十社もの見世物興行社が存在していたはずがないわけです。
ただ「見世物小屋は、消えゆく芸能」という言葉が劇中に出てきましたが、本当にそのとおりなのでしょう。
かつて人々が見世物小屋で味わっていたスリルや恐怖、ゲテモノ見たさといった感情は、テレビや映画で置き換えることができるようになりました。
いまや人々は「見世物が見たいから」ではなく「ノスタルジックな思いに惹かれて」見世物小屋を見に行っているのでしょうから。
見世物小屋に郷愁を感じない人間が今後ますます増えていけば、見世物小屋が存続できるはずがないのです。
「仕方ないこと」と言ってしまうのは寂しいですが、「仕方ないこと」としか言いようがない、というのもまた事実なわけですね。
また、これも劇中に登場したセリフですが。
「見世物屋が見世物になるのは、ご免だ」という言葉がありました。
「見世物興行をしているんだから、見世物になるのは当たり前じゃない?」と思うかもしれませんが、そういうことではないんですよね。
あくまでも見せているのは「見世物」という芸であって、自分たち自身が見世物のように扱われるのは嫌だ、という意味なのです。
このセリフに、興業の世界で生きる人間のプライドを感じました。
私もこういうことを言えるような生き方をしてみたいものです。