zatubunsya’s blog

アラフォーオヤジが何か考えたことを考えたままに書き連ねさせていただいております。

遺影がどうこう以前に自分の葬式について心配になったアラフォーオヤジ

昨日の日記では「自分の写真を最近撮っていないから、葬式の時の遺影が心配」という内容を書いたアラフォーオヤジです。

でもですね、よく考えてみたら遺影の心配をする前に心配しなければならないことがあったんですよ。

「そもそも、自分の葬式をしてもらえるものなのだろうか」と。

 

一応両親が生きていれば、葬式くらいしてくれるとは思います。

でも、親より先に死んで親を悲しませたくもないので、一応親よりは長生きするつもりでして。

兄弟がやってくれる可能性もありますが、ひょっとしたら私が兄弟最後の生き残りになる可能性も捨てきれませんからね。

そうすると、イマイチ誰が自分の葬式をしてくれるのか、ちょっとピンと来ないわけでして。

 

そもそも「そこまで葬式をしてもらいたいか」と言われれば、そうでもないんです。

別にしたけりゃすればいいし、したくなければしなくても構わないんですわ。

一応新鮮な死体の内に焼いてお墓に入れてもらいたいとは思いますけどね。

でもそれは「腐ったまま放置されて他人に面倒を掛けるのも悪いし」「遺骨をその辺に捨てると死体遺棄になっちゃうし」くらいの理由です。

 

実際、駅のコインロッカーに遺骨を入れたまま放棄したり、電車の中にわざと忘れていったりする、という事例は多いようでして。

確かに「お墓がない」という人にとっては、遺骨の扱いって困るものですからね。

その点、私は一応故郷に一族のお墓がありますので、他人に迷惑にならないようにそこに放り込んでおいてくれれば助かるかな、と。

 

ともかく、他人に迷惑が掛からなければどう扱ってくれても構わない、というのが本音です。

世の中には自分の葬式について「あげてほしい」「あげてほしくない」だの、「お墓はいらない」「遺骨は海に撒いてほしい」だの注文をつける人が多いそうですが。

 

何を死んでからのことまでワガママを言っておるのか、と。

葬式も遺骨の扱いも、実際にする人たちが好きなようにするのが一番だろう、と。

そもそも自分の希望通りにならないからと、文句を言えるわけでもないですし。

死んでるんだから。

化けてまで文句を言いに来るようだったら、それはそれで大したもんですよ。

 

そもそも葬式ってものは、死んだ人のためじゃなく残された人のためにするものだと思うんですよね。

葬式をすることで「ああ、この人は亡くなったんだな」とけじめをつける儀式なわけでして。

だから残された人たちが「死んだね」「そうだね」で納得できるなら、わざわざ葬式なんてする必要もないわけです。

 

もちろん「故人の遺志を尊重して」という意見もわかります。

「願い通りにしてあげた」という気持ちから生まれる安心感、というものもあるでしょうしね。

 

ただ、「お墓はいらない」とか「遺骨は海に撒いてほしい」とかになりますと、ちょっと考えるべきではあるかな、と思います。

実際に故人の遺志でお墓を作らず、散骨した方の中には「お墓参りもできないし、お骨に手を合わせることもできない。本当にこれで良かったのだろうか」と悩んでしまう人もいる、とのことですし。

 

私は「自分が死んだ後のことはどうでもいい」派ですが、亡くなった人のことを大事に思う気持ちというものも大事だと思います。

そういうことを考えると、亡くなった人のことだけでなく、残された人間もちゃんと納得できる形ですべてを終わらせることができる、ということが重要なのかな、と考えるわけです。

 

なんか久々に真面目な記事書いたら疲れちゃいましたわ。

居酒屋で相撲でも見て気分転換してきます。